本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。
読者に「一読法」を勧めているくらいだから、私も文章を読む際(人の話を聞く際)極力一読法を心がけています。
それは自分が書き上げた作品に関しても同様で、私は自分の文章を公開後いろいろつぶやきながら読んでいます。
その中には作者ならではの「しまった。これは良くない表現だった」とか「これは言い過ぎだ」と感じるものもあります。
それほど多くはないけれど、問題だと思ったときは次節にて訂正・修正しています。
これはひとえに各部を書き、全体を書き終えてから配信――しないことが原因です(^_^;)。
読者各位にしてみれば、突然はさみこまれる「一読法の復習」(と題した前節の復習やちゃぶ台返し)は「おいおい」と言いたくなるし、「全部書き終えてから配信しろよ」とつぶやかれるかもしれません。
もちろん「ぼーっと読んでいませんか」と(一読法的)注意喚起の思惑はあります。
しかし、部分を書きつつすぐに公開する。この執筆態度、私は「これで良いのではないか」と思っています。厳密に言うと、ある時期からそう感じ始めました。
というのはそれが《人生》だからです。大げさ(^.^)?
私たちは自分の人生を生きるにあたって「全て終わって振り返る」なんてことはあり得ない。そのときすでに棺桶の中にいるのですから。
私たちは途中途中でいろいろ感じたり、考えたりして成長する。幼児期には幼児期の、小中高は小中高の。一応の区切りはあるけれど、あくまで《途中》である。
そして、社会に出て働き始め、恋人を得たり得なかったり、結婚して子供が生まれ親となったり、あるいはずっと一人暮らしであったり、誰かと結ばれても子どもはいなかったり……と大人になってからも常に《途中》を生き続ける。
やがて老境を迎え、「そろそろ人生の終わりかなあ」と思っても、死ぬ瞬間まではあくまで途中。
途中に終わりはない……うーん名言(^_^)?
その都度いろいろ感じ、考え、ときには「失敗だった」とか「こうすれば良かった」と後悔することもある。
この、聞けば当たり前の生き方――それを文章(著作)にあてはめるなら、書きつつ公開する。そして、間違ったなら、あるいは「言い過ぎた」などあれば後日修正して反省する。これもまた社会において大いにある事態です。
……と大上段の言い訳を書いておいて(^_^;)、では一体前節のどこに「補足」が必要だったのか。
それは前置きと後記に書いた以下の部分。
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1 仏教はどうして今を生きる人は「救えない」と公言する宗教なのか。
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これに関して「釈迦の後を継ぐ弥勒菩薩は釈迦入滅の56億7千万年後、仏として生まれ変わって人を救うと仏典にある……ということは現在生きている人も、これから生まれる赤ん坊も、ほぼ永遠に『人は救われない』と言われているようなもの」と書きました。
もう一つ
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5 自分が良いと思ったものを人に勧めないのは悪いことか。
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に関しても「これって仏教にカンケーある?」とつぶやいた方は第37節をご覧ください――としてリンク先を示しました。
私は配信後、37節に飛んで(自筆自作ながら)一読法で読みました。
そして……読みつつ「あること」をつぶやき、「これは前節の修正が必要だ」と考え、急きょ[急遽]本節を挿入することにした――というわけです。
さて、以下は相当難しい問いです。
37節に飛んで読まなかった人はこれからぜひ同節を読んで、
作者御影祐は前節「1」のどこに問題があると考えたのか。
37節のどこで「あること」をつぶやいたのか。
これを探して考えてみてください。
さらに作者の指示通り第37節に飛んで読んでくださった真面目な読者各位へ。
(別に読まなかった人が不真面目と言いたいわけではありません)
素晴らしいと思います。が、敢えてきつい一言を(^_^;)。
途中で「あること」をつぶやかねばなりません。
一読法で読んでいれば、必ずつぶやきます。
もしも(読んだけど)つぶやかなかったなら、相変わらず「ぼーっと読んでいる」ことを意味します。
反省してもう一度(3度目?)再読して「あること」を探してください。
本文を読む前に……。
『空海論』前半のまとめ(三)
1 仏教入門後の大まかな流れと九つの謎 1月22日
2 南都仏教――僧侶個人への失望 1月29日
3 学問仏教、大寺院の経済活動への異和感 2月05日
4 山岳修験道進出、道教発見 2月12日
5 神仙思想への失望から仏教回帰、『聾瞽指帰』執筆 2月19日
『空海論』前半のまとめ(四) その1
1 仏教広布の悩み 2月26日
1補「一読法の復習と仏説補足」 3月05日――本節
2 百万遍修行と年月確定
3 新しい仏教を求めて一度目の求聞持法百万遍修行
4 室戸岬にて二度目の百万遍修行、改題『三教指帰』公開
5 二度の百万遍修行を経て体得した《全肯定》の萌芽について
「一読法の復習と仏説補足」
前節「仏教はどうして今を生きる人は『救えない』と公言する宗教なのか」に対して
「そんなことはないぞ」と、直ちに反論の言葉をつぶやいた方がいらっしゃると思います。
そして「仏教だって人を救えると説いている。いい加減なことを言うな!」とお怒りの言葉さえ発したかもしれません。
このようなことをつぶやかれたのは仏教信奉者、具体的にはお寺で日々念仏をとなえている僧侶各位。あるいは、長年仏教を研究してきた学者の先生方。
もしかしたら、やや軽蔑の念をもって「だから素人は困る。仏教をろくに勉強もせず、ニセ情報を流して平気でいる」と内心思った可能性もあります。
第37節を読めば、この方々は「なるほど《仏教は人を救う》と書いているな」とおわかりになるでしょう。しかし、読まなければ、作者御影祐への反感にも似た誤解(?)は解けないままです。
また、第37節を読んだフツーの方々。
こちらはあるところで次のようにつぶやかねばなりません。
「あれっ、御影は《仏教は人を救えない》と書いていたが、ここでは仏教は《人を救う》と書いてある。どーいうことだ?」と。
最後に第37節に飛ばず、前節を読んだだけで終わった方々。
その人は私が書いた「仏教は今を生きる人を救わない」との言葉だけが頭に残ります。
もしも今人生への絶望にとらわれているなら、「人間はほぼ永遠に救われない」の言葉を読んで、さらに絶望感を深め、暗い気持ちになり、「やっぱり人間って救われないんだ」とつぶやいて死の誘惑を断てないかもしれません。
この三者三様の感想・つぶやきをそのままにして次節に進むわけにはいかない。
これが本節を挿入する理由です。
私が途中でつぶやいたのは「こりゃあ37節を読んでくれないと、とんでもないことになる。今流行りのフェイク情報と受け取られる」との言葉でした。
では第37節「仏教入信の誓い《四弘誓願》」のどこにつぶやくべき言葉があったか。
前振りとしてちょっと四弘誓願(しぐせいがん)について確認しておきます。
これは釈迦の後を継ぐ菩薩たちと仏教入信者に課せられた四つの誓いであり願いという意味です。
四つの誓願とは何か。私はウィキペディアの解説を紹介しました。
その1として「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」とあり、「地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願」、234として「煩悩を断とう」・「仏教という法を全て知ろう」・「仏の道を歩んで必ず成仏しよう」とあります。
これを受けてさらに以下のように説明しています。
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この四誓願、234は個人の誓いというか、仏教信仰における誓い・決意を述べているように受け取れます。煩悩を断ち、仏法を学び、必ず成仏するという誓いを立てようと。
ただ、1は若干違います。それは地上にいるあらゆる生き物――特に衆生(人間)を救済しようという誓いです。
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ここが最初の「あれっ?」とつぶやいていいところ。
仏教は「衆生(人間)を救済しよう」とする宗教なのです。
さらに、次の部分。
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(仏教は)いまだ救われていない者、いまだ仏法を理解していない者、いまだ安心(あんじん)の境地――涅槃・悟りの境地に達していない人を「救済せしめん」というのです。
何を理解させるのか、何を使って救済するのか。もちろん仏教であり、仏説でしょう。つまり、四弘誓願とは仏教を人々に広め、理解してもらい、いまだ安心の境地に達していない人に、安心の境地に達してもらおうとの誓いなのです。
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ここでつぶやくべきは、
「あれっ、御影は『仏教は今を生きる人を救えない』と書いていたけど、違うじゃないか」との言葉です。
先ほど書いたように、仏教のことをよく知っている人がこの部分を読めば、
「なるほど御影は《仏教は人を救う》と書いている」と安心(この場合は「あんしん」)してもらえる記述です。
おわかりでしょうか。
第37節に飛んで読んでくれないと、仏教信奉者・研究者が抱いた誤解は解けず、フツーの人も「仏教は今を生きる人は救えないんだ」との印象だけが残ることになります。
それは即仏教への失望に変わるでしょう。
私は仏教信者ではありません。が、このような失望を読者に与えたくはない。
むしろ「仏教回帰」の第31節〜38節を読んでもらえれば、空海がまとめた仏説を紹介しつつ、「仏教が他の宗教にない奥深さを持っている」ことを書いています。
たとえば、六道の一つ、天界に住む天人は菩薩ではなく、天界は極楽ではないこと。阿修羅は仏教を守るために戦っている。だが、それは極楽に至る道――生き方ではないことなど。(→第32節)
他の宗教・宗派、原理主義者が語る「我が宗教・宗派を守るために戦えば天国に行ける、有り金全て差し出さないと地獄に堕ちるぞ」との言葉に比べれば、なんと良心的であることか。詳しくは関係する節をご覧ください。
それはさておき、以上のようにつぶやいて終わりにするようでは、まだまだ真の一読法読者とは言えません。
次なる疑問は御影祐の言う「仏教は今を生きる人は救えないと公言している」との関係です。
御影はなぜそのようなことを言ったのか。上記「仏教は人を救うことを誓いであり願いとしている」との違いとは――と考えを深めねばなりません。
この答えは以下の通り。
まず私の「仏教は今を生きる人は救えない」の言葉はあることへの反論として書かれています(作者からすると、反論として書きました)。
仏教の[ ](ほにゃらら)
↑
御影の反論「仏教は今を生きる人は救えない」
もうおわかりと思います。この「あること」には「(仏教の)教えは人を救う」という言葉が入ります。仏教理念というかご利益というか、仏教の根本的な教説です。
それに対して私は「《今を生きる》人は救えない」と提示したのです。
そして、第37節を読み進めれば以下の部分に突き当たります。
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要するに、仏教を知らない一般大衆は現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ。仏法(仏教)を知って信心すれば、死後極楽へ行くことができる。この素晴らしい教えを大衆に知らせようではないか、と言うわけです。
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このまとめで肝心な点は「一般大衆は現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ」のところです。
多くの人はこう思っています。
人は現世で苦しむが、死ねば苦しみから解放される。よって、自殺とは苦悩に満ちた自分の生を断つことで「救われる」最後の手段だと。
だからこそ日本では以前は3万人、今でも年間2万人の人が自殺する。苦しみから解放される手段として自殺を選んでいます。
悲しいことに近年はそれが若年化して2011年以降小中高校生の自殺は毎年300人を超え、2024年は過去最多の527人(1月29日発表)になりました。
この背後には(おそらく)何千人もの自殺志願者がいるでしょう。全ての大人が本気で考えねばならない悲惨な事態だと思います。
ところが、仏教はこう説いています。「死んでも苦しみますよ」と。
死は苦しみから解放される手段にはならないと言っているのです。
たとえば、いじめに耐えられず自殺する。パワハラ・セクハラ、職場の虐待、働き過ぎて過労死した……。
閻魔大王の前で自分はいかに現世で苦しんだか力説して「極楽に行かせてください」と懇願する。
だが、極楽に行ける判決が出るとは限らない――と仏教は言うのです。
閻魔大王は自殺してやって来た人に言うかもしれません。「お前は殺生を行ってきた。うそを言い続けた」と。
しかし、殺人犯でもなければ「確かに私は小さな生き物を殺したし、生きるために動物の肉を食べました。でも、人は殺していません。むしろ殺されたようなものです」と訴えるでしょう。
すると閻魔大王は言います。「お前は最後に人を一人殺したではないか」と。
さらに「お前は耐える必要のないところで耐えて苦しんだ。それはうそにまみれた生き方ではないか。その結果として自分を殺し、人は殺していないと大うそをつく。それが罪でないとどうして言えるのだ」と断罪して地獄行きを宣告するのでしょう。「現世で苦しみ、死して地獄で苦しむ」とはこういうことです。
閑話休題。
仏教は今の生き方を改めなさい。仏教を信仰して正しい生き方をすれば(現世の苦しみは消えないけれど)、死後は苦しみのない世界=極楽へ行くことができる――と説きます。
たとえば、「成仏(じょうぶつ)」とか「シャカになる」はともに死ぬことを意味します。現世で仏になることはない。死ねば仏になれる(かもしれない)。だから、仏になるという「成仏」は死を意味するようになりました。
ここが「信じるかどうか」の境目です。
死後の地獄、極楽を信じることができれば仏教信者となって生きる。だが、死後の世界を信じられなければ、仏教信者となることはなく、自分の生き方を変えようとも思わない……でしょう。
ここまで来れば、私がまとめた前節の言葉「仏教は今を生きる人は救えない」がちゃんと仏教のことを説明していることがおわかりいただけたと思います。
まとめると、仏教は《死後救われるための生き方》を説いているのです。
これは信者にとって安心して死ねる考え方であり、死に対する恐怖をやわらげてくれるでしょう。
と同時に人々を支配する、リードする人たちに都合のいい教えでもあります。
なぜなら「今苦しいことがあっても耐えろ。耐えれば死んだら極楽に行けるぞ」と言えるからです。奈良時代当時、毎年のようにどこかで飢饉が発生し、天変地異も多かった。それら全てに対して「耐えなさい。般若心経をとなえて耐えれば極楽に行ける」と言えます。
朝廷が仏教を人民に勧めた最大の理由がこれでしょう。仏教が説く「正しい生き方」を全人民が実行してくれれば、日本から犯罪はなくなります。もちろん国家は安泰、反乱など起こらないはず。が、現実はそうではない……。
もう一つ。このように仏説を理解すると、本文冒頭の表現も修正が必要になります。
前節私の言葉に対して「仏教だって人を救えると説いている。いい加減なことを言うな!」とお怒りの言葉さえ発したかもしれない、仏教信奉者や学者の方々。
きちんと仏教を理解している人ならこのような言葉は発しない、怒ることもない。
失礼ながら、中途半端に理解している人、一読法で読めない人が怒りの言葉を発するのです。
私は「今を生きる人は救えない」と書いています。この《今を生きる》が大切で、仏教をしっかり把握している人は「そんなことはない!」と怒鳴るのではなく、「そのとおり。確かに仏教は今を生きる人の苦しみを救うことはできない。だが……」と同意した上で反論の言葉を語るでしょう。
反論の言葉とは「だが、信じることで心の不安を取り除き、安心を得ることができる」と。
これで代表的な人は浄土真宗の開祖親鸞さんでしょう。
あるとき信者から「極楽浄土は本当に存在するのですか」と問われて「私もまだ行ったことがないからわからない。わからないが、私はあると信じている」と答えました。
信じることで今を生きられる、心の平穏を保つことができると言うのでしょう。
もう一つ。「5 自分が良いと思ったものを人に勧めないのは悪いことか」の言葉に関しても触れなければなりません。
この言葉を見た読者は直ちに「別に悪くはないだろう。よくやっていることだ。御影はほんとにへんなことを言うやつやなあ」とつぶやいたのではないでしょうか。
が、第37節を読めば、そんなに簡単なことではないとわかったと思います。
私たちは自分が良いと思ったものを人に勧める。それがフツー。
しかし、これが宗教・主義の話になると、ことは単純ではない。組織と個人の関係で言うと、宗教教祖、何々主義のリーダーは「良いものだから人に勧めろ」と信者にやんわり命令する(主義信奉者も「信者」と言いたくなるのはアメリカの花札大統領支持者を見れば納得できるでしょう)。
ところが、人々がそれを受け入れないと、「あいつらは悪い奴らだ。自分が正しく反対する者は敵だ」と言い張る。
かくしてオウム真理教はテロに走った。アメリカでは花札対トランプ(?)の分断が起こって内戦寸前に至る。世界では宗教間の戦争、資本主義対共産主義の争いが起こり、今は民主主義対独裁主義が争う。「自分が良いと思ったものを人に勧める」ことが人類から戦争がなくならない原因ではないか、と私なんぞは考えるのです。言い過ぎ(^_^;)?
長くなって恐縮です。そろそろ本節のまとめを。
この「仏教は今を生きる人間を救うことができない」点が私の仏教に対する不満であり、同時に(その人と並列して語るのは僭越ながら)空海マオの(旧)仏教への不満であったと思います。
空海は「現世は苦しみに満ちている。だが、死後なら救われる」との教えではなく、「現世で救われる」生き方を求めた。それこそ新しい仏教であると考えたのです。
そして、はるか先の結論を先取りして書くと、空海はこの難題を解きます。
彼が到達した最終境地「即身成仏」とは正に現世で救われる生き方を説いているのです。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:末尾に関連して最近見た刑事ものドラマの主人公の言葉を紹介します。
彼は過失を犯し絶望に浸っている部下に向かって次のように言います。
「あるフランスの哲学者が語っていた。絶望するな……たとえ絶望したとしても」
さらに続けて「絶望とともに生きろ!」と。
いい言葉だなと思いました。これを言い換えると、「苦しみを消すことはできない。苦しみとともに生きなさい」ということです。
私自身の書き物で恐縮ながら、私はこのことを狂短歌エッセー創刊号「四喜八喜の人生」で書きました。狂短歌は以下、
〇 四苦八苦 悩みばかりの人生と 嘆かず見ようよ 四喜八喜
おヒマなら、お読みください(^_^)。計何度目?
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MYCM:御影祐の最新小説(弘法大師空海の少年期・青年期を描いた)
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