四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編

 後半第 13

プレ「後半」その4(二)の5


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第284 ―論文編 後半13号

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           原則月1回 配信 2025年01月15日(水)


 『空海マオの青春』論文編 後半 第13号「『空海論』前半のまとめ(二)-5」

 2025年も早15日。寒中お見舞い申し上げます。m(_ _)m

 空海論文編後半は今年中の完成を目指しています。
 が、「プレ」だけですでに13号。どうなることやら、自信はございません(^_^;)。
 寛容の心にてお付き合いいただけたら幸いです。

 さて、今節は前半のまとめ「(二)その5」として空海マオが大学寮をやめ、仏教界に転進した事情についてまとめます。

 その3でマオが「めめしく悩む若者だった」ことを証明しました。そして、前節において希望に燃えて大学寮に入学したものの、訓詁注釈ばかりで創造性のない講義に失望したこと、また親が高位なら、子も昇進において優遇される「蔭位の制」について語りました。それがマオに絶望を抱かせたと。

 特に後者についてはマオと同年齢の藤原緒嗣、仲成が17歳にしてすでに従五位下である点。地方郡司の子で後ろ盾のないマオはどんなに優秀な成績で大学寮を卒業したとしても、天皇にお目通りがかなう従五位下に到達するまで官位十六階を上らねばならない。
 だけでなく地方出身者には「外(げ)」階の昇進が用意されており、上り詰めても外従五位下止まり。宮中を闊歩することはない。マオが自身の将来に関して暗澹たる気持ちにとらわれたことは間違いないでしょう。

 今節はそのような現状への失望、将来への絶望にとらわれた若者がどのような生活を送るか眺め、その後大学寮を退学し、南都仏教界に転進した経緯について語ります。
 仏教転進は空海マオの意思かどうか。私は誰かに勧められたと推理しました。

 なお、今節の詳細は論文編前半第14〜16にあります。

 プレ「後半」その4 空海論 前半のまとめ
(一) 空海の前半生、前期(生誕〜23歳) 11月20日
(二) 前期4つの謎について
 (その1)『三教指帰』を一読法で読んで謎を見い出した   11月27日
 (その2)「蛭牙公子」とは誰か、登場人物の戯画化について 12月04日
 (その3)空海マオはめめしく悩む若者であったことを証明  12月11日
 (その4)空海マオが大学寮をやめた事情          12月18日
 (その5)空海マオが仏教界に転進した経緯       25年01月15日


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 本号の難読漢字
・訓詁注釈(くんこちゅうしゃく)・蔭位(おんい)の制・藤原緒嗣(おつぐ)、仲成(なかなり)・従五位下(じゅごいげ)・暗澹(あんたん)・蛭牙公子(しつがこうし)・『聾瞽指帰』(ろうこしいき)・『三教指帰』(さんごうしいき)・三教(単独のときは「さんきょう」)
・得度(とくど、正式な僧となること)・出家遁世(しゅっけとんぜ)・山家(やまが)・阿刀(あと)の大足(おおたり)・未曾有(みぞう)・大極殿(だいごくでん)・藤原種継(たねつぐ)・早良(さわら)親王・皇太子安殿(あて)親王・紀古佐見(きのこさみ)・山背(やましろ)の国葛野(かどの)郡宇太(うだ)村
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***************** 空海マオの青春論文編 後半 ******************

 後半第13号 プレ「後半」その4(二) その5 

 空海マオが仏教界に転進した経緯

 もちろん空海自身が大学寮をやめた理由、仏教に進んだ経緯について何か語っている文書はありません。以前も書いたように、マオの内心やどのような事情があったかは私の推理です。

 推理に当たって当時の歴史的事実――政治社会状況を探ることで真実に到達しようとしています。取り分け「今も昔も人の心は変わらない」を推理の根幹に置いています。
 この点疑問と不審をお持ちの方は→後半第7節を参照ください。

 さて、めめしくうじうじ悩む若者が大学寮に失望し、将来に絶望したとき、どのような生活を送るか。これに関しては空海マオ自身が次のように語っています。
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 ここに一人の若者がいる。「その心は狼のようにねじけ、人から教えられても従わない。心が凶暴で、礼儀など何とも思わない。賭博を仕事にし、狩猟に熱中し、やくざでごろつきのならずもので、思いあがっている。仏教でいう因果の道理を信ぜず、業の報いを認めない。深酒を飲み、たらふく食べ、女色に耽り、いつまでも寝室にこもっている。親戚に病人があっても、心配などしないし、よその人に対応して敬う気持ちもない。父兄に狎れて侮り、徳のある老人を小馬鹿にする」ような人間である。
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 『聾瞽指帰』(改題『三教指帰』)の中で自堕落な若者として描かれた蛭牙公子。
 彼は儒教も道教も仏教も学んでいない。ほとんど野性であり、文明人とは言いづらいかのよう。この蛭牙公子が空海マオの戯画化であることは論証しました。

 よって、大学寮と将来に絶望した空海マオもまた朝寝朝酒、バクチと女郎通いに明け暮れた――は言い過ぎながら、「飲む打つ買う」の酒と女とバクチに耽溺した可能性があります。大学寮落ちこぼれ組の悪友もいたのではないか。

 マオはこの若者を「蛭牙公子」と名付けました。「蛭」とは「ヒル」のことで、山間の沼地で動物や人間の血を吸う。ヒルに牙があるかどうか不明ながら、周囲から忌み嫌われるヒルのような存在との意味がこめられているでしょう。

 ただ、このような自堕落生活に対して大学寮教授や阿刀家親戚から叱責、説教を受けたかどうか。『聾瞽指帰』仏教編に忍び込んだ親戚による「乞食坊主のような生活はやめて儒教に戻れ」同様の言葉をかけられたか――と言うと、たぶんなかったと考えられます。

 なぜなら、空海マオの大学寮での成績は相変わらずトップクラスを維持したと思われるからです。
 学友がどんなに必死に勉強してもマオには追い付けない。彼は居眠りをしていても、教授の質問に対して寝ぼけ眼でさらりと正答を答える。何しろ大学寮数年分の教科書(漢籍)を全て暗記しているような人です。何でも答えられたはず。
 教授は「生活態度を改めてもっと勉強しろ」の言葉を飲み込んだでしょう。
 阿刀家の親戚だって何も言わなかったに違いありません。

 以前も書きました。現在でも大学に失望し、絶望感に浸って乱れた生活を送る若者がいる。彼は「大学をやめたい」と思っているけれど、だらだら同じ生活を続けてしまう。「もう大学にいたって仕方ない。ほんとはやめたい。けど、両親は自分に期待している。息子のために田舎で懸命に働いている。それを思うと、やめたいと言い出せない。だが、今の自分は大学にも行かず悪友とバカなことをやって遊び暮らしている」とめめしく悩むタイプの学生がいると。

 空海マオには『三教指帰』仏教編に親戚から「乞食坊主なんぞやってないで儒教に戻れ」と説教されたとき、似たような言葉があります。
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「私も人として父母の恩を片時も忘れたことがありません。親は年老い、家は傾き、親族も貧しい。私に託された期待を思うと胸が張り裂けんばかりです。しかし、非力な私に肉体労働はできず、仕官しようにも才覚がありません。かつての君子ももはや存在しないではありませんか。大たわけの私はこれからどのように生きたらよいのか。ただ途方に暮れ、ため息をつくばかりです」
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 大学寮をやめるかどうか、ぐずぐず悩んだときの気持ちも、これと同じではないか。
 後述しますが、仏教界に転進してもマオには失望と絶望があり、打開すべく山岳修行に飛び込む。いまだ得度もせず、私度僧として乞食坊主のような格好のマオは、正道を歩む親戚にとっては鼻つまみ者。そこで進むか退くか悩んだのなら、大学寮でも同じように悩んだと推理できるのです。

 では空海マオが「もう大学寮をやめよう」と決意するに至った経緯はどうか。

 マオが大学寮退学後(もしくは休学状態で)仏教に進んだのはずっと《空海の意志》と思われ見なされてきました。根拠は『聾瞽指帰』の序において仏教入門のわけを次のように語っているからです。

「立身出世や世俗の栄達を競う世の中をうとましく思い、夢・幻でしかない人のはかなさから悟りの道を考え、出家しようと思った」と。

 しかし、これは定型のような出家の理由であり、マオの真意を明かしていないと思います。
 そもそもこのような言葉から出てくる境地は「出家遁世」――世を厭い、俗世間を離れて仏門に入ることでしょう。出家後は寺院や人里離れた山家の独居生活であり、静かにお経を読み、ひたすら座禅に明け暮れる毎日ではないでしょうか。後世になるけれど、『徒然草』兼好法師のような。

 ところが、マオはその後寺院を離れて山岳修行に入り、さらに後年日本を飛び出して唐に渡り、新しい仏教である《密教》を得て帰国します。
 帰国後は真言宗を創始して最澄の天台宗とともに平安仏教の二大勢力となり、政治の世界とも大きく関わります。
 定型のような出家の動機にはこの《能動性》と言うか《積極的な意志》が感じ取れません。私にはマオが入門当初から《新しい仏教創始》を思い描いていたと思えるのです。

 マオが大学寮退学を決意したとき、彼には「仏教に行こう」との気持ちはなかったのではないか。物心ついた頃から官僚(政治家)を目指し、ひたすら儒学一筋でやってきた少年です。
 その儒学を離れるなんて身についた肉をそぎ落とすようなもの。相当の痛みをともなっただろうし、そこを離れてどう生きればいいか、たやすく思いつくとは考えられません。『聾瞽指帰』の自堕落人間蛭牙公子は三教を聞く前の存在であり、それは仏教入門前、儒教にまみれた(だけの)マオ自身でもある。
 大学寮退学前のマオにとって仏教とは未知の世界、異世界だったと思います。

 マオは「これ以上はもう耐えられない」と大学寮退学だけは決意した。けれども、その先のあてはなかった。
 そのとき「大学寮をやめるか。ならば仏教に行ってみるか」と言った人がいるのではないか。私はそう推理しています。マオに仏教入門を勧めた人物がいるはずだと。
 しかも、その人は「腐敗堕落した仏教界で新しい仏教を生みだしてみないか」と言ったのではないか。こう考えることで、その後の能動性、積極性が納得できるのです。

 それは誰か。考えられる存在は一人しかいません。
 帝都で暮らすマオの後見人――藤原南家伊予親王の家庭教師となったマオの母方の叔父、阿刀の大足です。

 この時期の大足はおそらく三十代後半から四十代前半くらい。もちろん従五位下ではなく(助教にもなっていないので従七位と推理)、儒学者として将来は大学寮の助教から教授が期待されている人と思います。
 彼は帝都の社会、政治状況をよく知っている。もちろん仏教界についても詳しい。そして、空海マオの悩みを理解できる唯一の人であると思われます。

 ここで私的体験を一つ。私は今から?十年前、小学校5、6年の2年間、親に言われてラジオの基礎英語を勉強しました。確か朝の6時半ころの放送で、うつらうつらしながら「This is a pen.」とやりました。
 中学校の英語を前もってやらせれば、「英語でつまずくことはあるまい」との理由でしょう。おかげで中学校の3年間、私の英語は一貫して5段階の5でした。

 ここで質問。空海マオの大学寮数年分の教科書(漢籍)を丸暗記する勉強法は一体誰が教えたのか。
 答えはすぐに出るでしょう。叔父である儒学者阿刀の大足しかいません。

 彼もまた上の代からそのように教わり、漢籍を丸暗記して大学寮を優秀な成績で卒業した(と考えられる)。それがいざ大学寮に入ると、全く新味のない、すでに知っていることばかり繰り返され、講義をつまらなくすること、創造的人間にとって耐えられない授業になるとは思い至らなかったのでしょう。

 ちなみに、私の中学校英語授業はせいぜい1年分の知識しかなく、つまらないどころか評価5を維持するため一日2時間は英語を勉強したものです。さらに、その後大学卒業まで10年間英語を学んだのに、大卒後は英語を喋れない、英字新聞、小説・論文など読めない、読もうとも思わない。そのような日本の英語教育の悲しき犠牲者として「あの無駄な時間を返せ!」と言いたくなる(^_^;)。
 この件は以前『一読法を学べ』(第47号)で書きました。

 閑話休題。マオの大学寮退学に戻ります。
 マオの叔父阿刀の大足については論文編前半14〜16節を再読下さい。

 長くなるので、ここはマオがいよいよ「大学寮退学」を決断した大きな「偶然」について語っておきます。
 今でも同じでしょう。いいろ迷ったあげく何かを決意するとき、自然――というか天のすう勢に背中を押されることがある。マオにとっては帝都長岡を襲った未曾有の水害、そして長岡から平安京へ――遷都の決定でした。

 大学寮二年目の延暦十一(七九二)年。この年前半はずっと少雨で干害が広がり、各地で雨乞いの儀式が行われました。六月に入ってようやく降り出した雨はやがて長雨となり、長岡の東を流れる桂川が徐々に水かさを増します。

 そして六月二十二日、雷鳴と豪雨が帝都を襲って桂川が氾濫。濁流は左京に流れ込み、式部省の南門が音を立てて倒壊しました。通りは川となり、家々は床上まで水に浸かったことでしょう。

 さらに、その後始末も終えぬ八月九日、前回にも増して激しい雨が降ります。
 大量の雨は桂川からあふれ、堤防が何カ所も決壊
。激流が朱雀大路を越え、右京まで泥水に浸かった――と『続日本紀』にあります。大極殿は丘の上にあるので被害を免れました。

 長岡を都としてから八年。前年には平城京の朱雀門など諸門を移築しています。さあこれからというときの二度の水害。これは朝廷と民に相当ショックを与えたようです。
 長岡京は藤原種継暗殺と早良親王冤罪事件から始まっています。遷都後天皇の母と皇后の突然死、皇太子安殿親王が原因不明の病気にかかるなど変事が続き、天候不順で飢饉が毎年のように発生しました。
 この年も皇太子の長患いで、占わせたところ「早良親王の祟り」と出ます。
 桓武天皇は帝都を見下ろしながら「この地は穢れているか」とつぶやいたかもしれません。

 一説によると、すでに数年前から遷都の思いがあったのではと言われます。二度の水害はその決定を早めただけかもしれません。
 おそらく九月には《遷都》が本決まりとなっていたのではないか。これ以後天皇の鷹狩りが長岡東部で盛んに行われています。平安京候補地の視察が始まっていたことは間違いありません。

 鳴くよウグイス平安遷都――は水害の翌々年ですが、すでに翌年一月十五日には大納言藤原小黒麻呂と左大弁紀古佐見が「山背の国葛野郡宇太村」(平安京の地)に派遣され、土地の様子を視察しています。『日本後紀』には「遷都のため」と記されており、二度の水害を終えた頃には遷都が決断されたようです。

 遷都のうわさが民に広まるのは早かったと思われます。貴族の建物などが倒壊したり、泥に汚れてもそのままであったら「おかしい」と感じるものです。民は朝廷より早く「変事は早良親王の祟りだ」と語っていたでしょう。

 遷都のうわさはやがて大学寮に流れ、マオの耳に入る。藤原南家に連なっている叔父大足は最も早くこのことを知ったはずです。しかし「機密事項」なら、叔父がマオに語ることはなく、マオはやはりうわさで遷都を聞きつけたのではないか。

 マオはそれを聞いてどう思ったか。遷都すれば、大学寮も当然新都に移る。建物は新しくなるだろう。だが、そこで行われる学問は千年変わらぬ訓詁注釈。何も変わることがない。ここでマオは決心したのだと思います。
「いい機会だ。大学寮が長岡からなくなるなら、私もやめよう」と。
 その先のあてはない。しかし、やめることだけは決心した。それが水害後だったのではないか。自然がマオの決意を後押ししたのではないかと私は思います。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:2025年初っ端から長文で申し訳ありません。つくづく短くするのが「下手やなあ」と思います。なお、昨年は週イチで公開していましたが、今後は2週にひとつとします。

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