四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編

 後半第 8

プレ「後半」その4(一)


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

|本  文 | 論文編 トップ | HPトップ


(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第278 ―論文編 後半08号

(^o^)(-_-;)(^_-)(-_-;)(^_-)(~o~)(*_*)(^_^)(+_+)(>_<)(^o^)(ΘΘ)(^_^;)(^.^)(-_-)(^o^)(-_-;)(^_-)(^_-)

           原則月1回 配信 2024年11月20日(水)


 『空海マオの青春』論文編 後半 第8号 その4「『空海論』前半のまとめ(一)」

 今節より4回にわたって『空海論文編』前半(57節)の内容をまとめながら解説します。
 謎に満ちた前半生について私がどのように謎を解いたか。その復習でもあります。

 なお、難読漢字は(一読法からは)検索してほしいけれど、仏教用語・歴史用語などもあってちょっと無理スジです。そこで冒頭に読み仮名をつけていますが、かなり多くなるときもあります。
 ここで気を入れ過ぎると、本文を読み続ける気力が続かない恐れがあるので、さらりとスルーしていいかなと思います(^_^;)。

 プレ「後半」その4 空海論 前半のまとめ
(一) 空海の前半生、前期(生誕〜23歳) 11月20日
(二) 前期4つの謎について(1・2)   11月27日
(三) 空海の前半生、後期(24歳〜32歳)12月11日
(四) 後期3つの謎について       12月18日
(五) 帰国後の空海           12月25日


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 本号の難読漢字
・延暦(えんりゃく)・入唐(にっとう)・最澄(さいちょう)・三教指帰(さんごうしいき)・真魚(マオ、またはマイオ。空海の幼名)・崩御(ほうぎょ)・阿刀大足(あとのおおたり、空海の母方の叔父)・蝦夷(えみし)・太龍山(たいりゅうざん)・求聞持(ぐもんじ)法・聾瞽指帰(ろうこしいき)・三教指帰(さんごうしいき)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
***************** 空海マオの青春論文編 後半 ******************

 後半第8号 プレ「後半」その4(一)「空海の前半生、前期(生誕〜23歳)」


 空海の前半生は生まれてから入唐帰国までを意味します。
 30歳の時遣唐使船の一員として入唐(正式な遣唐僧だったかは疑問)、わずか2年で密教第八祖となる。そして、「虚往実帰」(虚しく往きて実ちて帰る)と言われるほど、大きな(奇跡的な)成果を得て帰国します。その後は真言宗を開き、最澄の天台宗とともに平安の新仏教としてもてはやされます。

 帰国後を空海の後半生と呼ぶなら、後半生は資料も多く偉人伝として8割方語ることができます。しかし、前半生は資料や空海の言葉少なく――ゆえに謎が多いのに、上っ面をなぞるだけの「語り」しかできません。

 私は空海を研究すればするほど、面白く興味深いのは前半生であると思って謎の解明に挑みました。そして、その成果によって小説編『空海マオの青春』を書きました。
 原稿用紙1000枚の長編の中で、帰国後の記述はわずか1パーセント(^_^;)。99パーセントは前半生に集中しました。

 まずは前期を大ざっぱに眺めておきます。

 空海の幼名は真魚。マオとかマイオと呼ばれたようです(私はマオを採用しました)。
 西暦774[宝亀5年]6月15日、讃岐の国多度郡(現在の香川県)善通寺のあたりで生まれました。父は郡司の佐伯タギミ、母は阿刀家のアコヤ。第五子として生まれ、兄が三人、姉が一人いました。

 前半生において空海と桓武天皇は切っても切り離せない関係にあると言えます。
 マオが物心つく七歳のときに先代光仁天皇が崩御。桓武天皇が即位して年号は延暦となります。そして、空海が帰国の途に就く二十五年後、桓武天皇は崩御しています。
 この間空海と桓武天皇に直接の交流は見られないものの、空海の母方の叔父阿刀大足が天皇の次男伊予親王の家庭教師をしています。

 この二十五年間に帝都は平城京奈良から長岡に移り(空海十歳)、さらに「鳴くよウグイス平安京」で有名な七九四年(空海二十歳)には平安京に遷都しています。
 国内は不作、飢饉、干害、また東北蝦夷との内戦など不安定な時代でした。空海マオはそのような時代に多感な少年期・青年期を過ごしたのです。

 私たちは一人の人間として生きつつ、時代の動きと無縁に生きることはできません。空海マオも時代の波にもまれて前半生を過ごしたはず。そういう意味で「空海伝」を書こうと思ったとき、時代背景を取り入れること――それは必須の条件だと思いました。

 以下七歳以後は年譜風に箇条書きします。

 [空海前半生年譜]
781年7歳−[延暦元年、光仁天皇崩御、桓武天皇即位]
 天童としての資質を発揮しつつあったか。父母親族は「貴(とうと)もの」と呼んでいたとも。「子曰く」の『論語』を学び始めた。
784年10歳−[延暦3年、平城京より長岡京に遷都]
786年12歳−[延暦5年]
 讃岐の「国学」(地方官吏養成期間)で2年間儒学を学んだと思われる。

788年14歳−[延暦7年]
 帝都長岡京に上京、母方のおじ阿刀大足の元でさらに「四書五経」を学ぶ。
791年17歳−[延暦10年]
 日本に一つの《大学寮》に入学するも、一年後か二年後に退学。南都仏教(奈良大安寺)に入門する。

794年20歳−[延暦13年、平安遷都]
 この前後から山林修行に入り、四国太龍山、室戸岬にて求聞持法百万遍修行を二度実践する。
 室戸岬では明星が口に飛び込む神秘体験を得る。
797年23歳−[延暦16年]
 「儒教・道教・仏教」を比較して仏教こそ最上位とする『聾瞽指帰ろうこしいき』執筆。12月 『三教指帰さんごうしいき』と改題して公表する。

 ……この後6年間消息不明……

 この大筋はまず間違いのない史実として認知されています。しかし、その間空海マオが何を考え、何を感じたか、その詳細は全くわかっていません。空海自身が語っていないし、歴史的資料も乏しいからです。

 この空海前半生、前期における謎をまとめると、大きく4つに分かれます。

 1 空海マオが幼い頃から仏教に進むと思っていたなら、なぜ官僚養成の大学寮に入ったのか。大学寮の生活はどのようなもので、なぜ退学したのか。
 2 奈良仏教に入門して何を考え、何を感じたか。なぜ山岳修行に走ったのか。
 3 「聾瞽指帰」は空海にとってどのような位置にあるのか。なぜ儒教・道教・仏教の三教を比較する必要があったのか。
 4 二度の百万遍修行によって何をつかんだのか。改訂「三教指帰」と「聾瞽指帰」はどのような関係にあるのか。


===================================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。
===================================

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
 MYCM:御影祐の最新小説(弘法大師空海の少年期・青年期を描いた)      
  『空海マオの青春』小説編PDFファイル 無料 にて配信     
  詳しくは → PDF版配信について
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

後半第 9 へ

→『空海マオの青春』論文編メルマガ 読者登録


画面トップ

空海伝 トップ | HPトップ


Copyright(C) 2024 MIKAGEYUU.All rights reserved.