『続狂短歌人生論』64 四タイプ統合の人格 その4 三善の策


○ 統合の人格目指すその前に 補い助けあう集団


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ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」   2024年05月15日(水)第64号


 『続狂短歌人生論』64 四タイプ統合の人格 その4 三善の策

 2号前に見出しと狂短歌をつくったとき、「三善の策」は私の造語だと思いました。念のためネット検索したら、あることがわかってびっくり。

 それが初出かどうか不明ながら明治初期の話です。
 大久保利通は京都から大阪への「遷都」を主張した。が、公卿の猛反対にあい、衆議によって否決された。彼はその後「大阪行幸」を実現し、それがやがて東京遷都につながる。
 徳富蘇峰は当時の大久保を評して「最善を得ざれば次善を取り、次善を得ざれば三善を取るというごとく、ある意味においては大なる臨機応変者であった」と語ったそうです。

 なるほど「最善→次善→三善」ってあるんだ、それは「臨機応変なんだ」と心強く思った次第です。
 もっとも、今号提起する「三善の策」はちょっと弱々しい、情けないと感じるかもしれません。
 これは無理なく、無理せず生きる《生き方》でもあります。簡単に言うと「自分で何でも解決しようとしない」ことです。


5月08日(水) 62号 四タイプ統合を目指す その2 最善の策
 〇 統合とは 強く厳しく突き放し 甘えを許し受け入れること

5月10日(金) 63号 四タイプ統合を目指す その3 次善の策
 〇 四タイプ 原性格を正しつつ 自我の成熟目指す生き方

5月15日(水) 64号 四タイプ統合を目指す その4 三善の策 ―――――本号
 〇 統合の人格目指すその前に 補い助けあう集団



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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 統合の人格目指すその前に 補い助けあう集団

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 (^_^) ゆとりある人のための20分エッセー (^_^)

 【『続狂短歌人生論』64 四タイプ統合の人格 その4 】

 統合の人格を目指すにあたって最後にとても現実的な方策――「三善の策」を提起したい。
 それは家族や集団内において「自分の苦手分野」を他タイプに補ってもらうことである。

 脅迫的タイプの良いところはとにかく勇気があること。困難な状況を切り開く行動力、先頭に立って闘うリーダーとしての資質は素晴らしいものを持っている。
 また、批判的タイプの良い点は理論的で正しい方向へ人々を導くこと。民主的であり、こちらもリーダーとしての資質を持っている。

 ところが、この二者が他者のエネルギーを奪う形の言動を取る限り、それは小さな支配であり、強制・命令・悪口・押しつけであり、悪しきドラマでしかない。そのとき脅迫者・批判者に第三者的見方と、中立の考え方を提起できるのは傍観者である。

 さらに、脅迫者や批判者が早急な結果・結論を求めるのに対し、ねばり強く「待つ」ことができるのも傍観者である。
 また、弱い相手の立場に立つこと、相手の心理を代弁できるのは受容者タイプである。相手を許し思いやることに関して受容者タイプほど最適な人はいない。

 よって、もしもこの四タイプがそれぞれの「良い点」を発揮し合って共存できるなら、それは素晴らしい集団ではないだろうか。

 つまり、家庭内において脅迫的・批判的な夫(または妻)の不得意分野を傍観的・受容的妻(または夫)が補うのである。一人で「統合の人格者」になることはなかなか難しい。そこで当面は自分の弱点分野を他タイプに任せるのである。

 ここで問題なのはやはり脅迫者・批判者の態度
 傍観者や受容者タイプが自分の意見を主張したとき、脅迫者や批判者が「そんな考え、やり方は間違っている」と全否定すると、もう傍観者タイプは意見を言わなくなる。受容者タイプも口を閉ざす。すると脅迫者と批判者の「強く正しい」意見が全体を支配しリードすることになる。
 結果、何が起こるか。集団はちっとも活性化しない。傍観者と受容者タイプはやる気をなくし、脅迫者・批判者タイプは全体が動かないことに苛立ちを深める。

 この具体例は至る所で見出すことができる。例えば、批判者タイプの奥さんが子育てに悩んでいるとしよう。そのとき傍観者(または受容者)タイプの夫が(珍しく)自分の意見を述べたとする。
 すると、この奥さんは「あなたは黙っていて」とぴしゃりと来る。夫は黙ってしまう。そして、奥さんは自分の意のままに押し通す。

 やがて奥さんが悩みを独り言のようにもらしても、夫は聞かないふりをして何も言わない。奥さんはそんな夫に失望する。夫を意見やアドバイスを言わない人にしたのは自分だと気づいていない、悲しい批判者だ。

 夫が批判的で妻が傍観的・受容的であっても全く同じ。九州大分弁だと「お前は黙っちょれ」と言う。もしも夫婦二人がともに批判者だと最悪である。夫も黙っていないし、妻も黙っていないから当然のように夫婦喧嘩となる。

 学校現場における「生徒指導」においても同様の傾向が見られる。
 職員会議などで何か意見を述べたとき、全否定する批判者や脅迫者がいると、議論はちっとも活発化しない。傍観者・受容者タイプは自分の意見を否定されると、それ以上強く主張できないのである。

 もしあなたが「教員がそんな弱々しいことでどうするんだ」と腹を立て怒るとしたら、あなたは間違いなく脅迫者か批判者タイプだろう。結局、いつも意見を述べて集団をリードするのは脅迫者タイプか、批判者タイプということになる。

 さらに、ある集団が全員脅迫者だったらと思うとぞっとする。それこそ恐怖政治だ。明るさが一つもない真っ暗闇の世界である。脅迫者たちは常に暴力による戦闘を繰り返すだろう。

 かと言って全員傍観者という集団も白けた無責任集団の世界のように思える。無秩序でお互い無関心の集団はまとまりがなく、自分勝手な孤立集団だ。
 ちっとも声をかけない、助け合うことのない傍観者たちはお互い気楽かも知れないが、やがてものすごい孤独地獄に陥るはずだ。
 特に自分が困ったとき「助けてほしい」と声をあげられない。すると傍観者は「人は不人情だ」と思う。だが、そのような状況にしたのが傍観者自身であることに気づいていない。こちらも悲しい傍観者である。

 また、批判者ばかりが集まれば、相手の悪口を言い合って、口げんかが絶えない集団だろうし、受容者ばかりが集まれば、泣き言と愚痴を並べ合うだけで、これも暗く活気のない集団のような感じがする。

 以上のことを考えてみれば、当面四つのタイプは集団にとって《必要》かもしれないということだ。
 最終的な理想社会は愛エネルギーを付与し合う集団であり社会だ。個人的には自我が成熟し、四タイプ全てを合わせ持てる統合の人格者が集まりたい。

 だが、数千年、数万年に渡って培われた人の四タイプはすぐに理想型には行かないだろう。それまでは互いに補完し合う存在として集団を形成することが三善の策ではないだろうか。

 そのとき最も大切なことは各タイプが自分の原性格に基づくコントロールドラマを「セーブすること」、他タイプの「良さを認め合うこと」である。
 そのためには「現在の事態を引き起こしたのは自分の脅迫者ぶり、批判者ぶり」ではないかと反省すること、「自らの傍観者ぶり、受容者ぶりがこの事態を引き起こした」と反省することである。
 この反省さえできれば、あなたは今の自分を大変革せずとも、少しずつ「統合の人格」に近づいていけると思う。


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:以上3節に分けて「統合の人格」を目指す方法論と言うか生き方を書きました。
 以前振り返ったように、これは(二十数年前執筆していた)下書きからの転記です。
 ただし、見出しと狂短歌は2024年5月現在作成しました。

 以下の質問はちょっと難しすぎるので、さすがにわからないだろうと思います。
 おヒマな方だけちょっと考えて「そりゃわかんね」とつぶやいてください(^_^;)。

 2号前「その1」前置きで以下のように書いています。
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 今ようやく最終章「統合の人格」にやって来てペンが滞っています。
 理由は下書き末尾にある「統合の人格」をどう処理するか悩んでいるからです。
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 さらに、「そのままでは公表しづらい」とあり、「今の私は必ずしも『統合の人格を目指そう』との結論ではない」とあります。「20年を経た今『続編』の結論としては若干違う。やはり全く同じとは言いづらい」と書きつつ、「基本は変わらない」から下書きをほぼそのまま転記した。

 では、チョーむずい「筆者なぜ?」の質問(^.^)。
 この3号に書かれていることと今の思いの違いとは何か。
 違うから改稿を目指したけれどあきらめた。その理由は?
 後半は「その1」の前置きにある程度書かれているので、それをまとめればいい。が、前半の「違い」を表す言葉はこの3号に出ていません。

 答えは以下のとおり。□□と〇〇を埋める二文字の熟語穴埋めに挑戦してください。

 下書きに書かれていることは所詮□□であり、「その通り」とつぶやいて反論できない□□である。だが、ひとりひとりの〇〇が認め受け入れなければ、それは所詮絵に描いたモチでしかない。古今東西語られた「理想の人格像」に過ぎない。問題はそれが実行・実践されないことだ。

 当初は前著下書き(3号分)にこのことを取り入れて改稿することを目指した。だが、この改稿はかなり大変でひと月はかかる。だから「これはこれとして」そのまま転記しよう。そして、次号より「どんでん返しの結論」として各自の〇〇が認め、受け入れるための考え方を書くことにしよう――と決めた。

 すなわち、この3節に□□は書かれているけれど〇〇が書かれていない。全くないわけではないけれど、かなり少ない。実践のためにはそこを追究しなければならないので、新たに書く必要があると思った。よって、次号からが真の『最終章』であるということです。

 えっ、簡単な穴埋め問題ですか?(^_^)


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