○ 統合とは 強く厳しく突き放し 甘えを許し受け入れること
ゆうさんごちゃまぜHP「続狂短歌人生論」 2024年05月08日(水)第62号
『続狂短歌人生論』62 四タイプ統合の人格 その2 最善の策
これまで触れたように私は2000年に高校教員を中途退職しました。前著『狂短歌人生論』と本稿『続編』はその直後執筆した教育・人生論が下書きです。
あまりの長さに出版をあきらめ、一部を取り出して各節を短くまとめ、狂短歌を見出し代わりとして(自費)出版した(2007年)のが前著です。
すぐに続編を出すつもりだったけれど、オゼゼ尽き、気持ちも萎えて早うん十年。一昨年前著をメルマガ公開してようやく意欲復活、昨年から続編公開に踏み切りました。
こうなると本稿『続編』においては「各節を短くしよう」といった気配り、心配りなんぞかなぐり捨て自由に思うがままに書きまくりました(^_^;)。
それができた最大の理由は『一読法を学べ』を執筆・公開したことで、読者はきっと読んでくれる。「一節が長くとも考えつつ読む力が身についたはず」と信じられたから……ですが、たぶん昔のくせでぼーっと通読しているだろう。だから、しばしば一読法クイズを出して注意喚起したわけです(^.^)。
前置きの「それはさておき」。
今ようやく最終章「統合の人格」にやって来てペンが滞っています。
下書き末尾にある「統合の人格」をどう処理するか悩んでいるからです。
以前も書いた通り、四タイプを統合する「統合の人格」という考え方は下書きにあります。それをどのように改稿するか。そのままでは公表しづらい。
なぜなら現在(続編執筆以来の)考えをそこに投影すると、かなり違った感じになるからです。「どんでん返しの結論」と書いたものがそれに当たります。
つまり、今の私は必ずしも「統合の人格を目指そう」との結論ではない。もちろん一人一人は統合の人格を目指したい。だが、それはとても難しいから、次善、三善(?)の策を取りたいと思っています。
……とあれこれ考えたのが先週のこと。
そのとき「待てよ」とつぶやき、二十数年前の下書きラストを念入りに読み返しました。そして、結論部を三つに分けると「最善、次善、三善の策」に分かれていることに気づきました(むしろ思い出したと言うべきか)。
なんのこたあない、自分で「まずは統合の人格を目指そう。だが、それは難しいから次善の策としてこれこれ。もっと簡単に三善の策としてこれこれ」と書いていたのです。
ただ、20年を経た今『続編』の結論としては若干違う。やはり全く同じとは言いづらい。が、基本は変わらない。ならば、取りあえず下書きの結論を転記しよう。そう決めました。
そこで原文を(長文なので)三つに分け、各節に見出しをつけ、狂短歌を考案しました。できあがったのが以下三節。間隔を詰め本日より2週間で公開します。
5月08日(水) 62号 四タイプ統合を目指す その2 最善の策 ―――――本号
〇 統合とは 強く厳しく突き放し 甘えを許し受け入れること
5月10日(金) 63号 四タイプ統合を目指す その3 次善の策
〇 四タイプ 原性格を正しつつ 自我の成熟目指す生き方
5月15日(水) 64号 四タイプ統合を目指す その4 三善の策
〇 統合の人格目指すその前に 補い助けあう集団
(^_^)本日の狂短歌(^_^)
○ 統合とは 強く厳しく突き放し 甘えを許し受け入れること
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****************** 「続狂短歌人生論」 ***********************
脅迫・批判・傍観・受容――四タイプ全ての人格を合わせ持てる人こそ「統合の人格者」と言うに相応しい。
この人は相手を恐れない「勇気」を持ち、相手を正しく導く「正義」を持つ。
それでいて相手を自立させる「忍耐」を持ち、相手を思いやる「優しさ」を持っている――そういう人格者である。
この人格者は時には強く激しく訴える。時には厳しく懇々と説く。時には突き放して待つ。時には許し甘えさせる。
統合の人格者は傍観しないし諦めない。脅迫しないし、批判という名の悪口を吐かない。暴力を振るうことは絶対にない。
この人は積極的で行動力があり、人を受け入れ、人間の弱さを思いやる想像力を持っている。他者が自分を愛していることを信じられ、他者を愛する自分を信じられる。
この人が他者と付き合う基本は「愛」である。他者に関心があり、感謝・笑顔・好意を示す。統合の人格者は他者に愛エネルギーを与えることができる、つまり、相手を心から誉めることができる性格なのである。
もしもそんな人は「存在しない」と言うなら、この「統合の人格者」をぶっちゃけた言葉で表現すると次のようになる。
彼(彼女)は他者に対して叱ることができるし、甘えさせ許すことができる。厳しく注意しながら、相手の成長を待つことができる――そんな人である。
これなら周囲に一人は思い浮かべられるのではないだろうか。
私は訴えたい。今家庭内において離婚もしくは死別によって、一人で子育てをしている人へ。
あなたこそこの統合の人格者となって子どもを育ててほしい。子どもに無関心であってはいけない。子どもにすりよって何も言えないようでもダメだ。かと言って暴力をふるったり、全てを親のあなたが決定し、子どもの悪い点ばかり厳しく責めてもダメである。
あなたに必要なのは時に強く激しく、時に厳しく懇々と説くこと。時には突き放して待ち、時には許し甘えさせる育て方である。
以前も書いた。公園デビューの幼子がこけて倒れたとき、助けに行くか、起きなさいと言って自立を待つか。「これだけは正解がある」と書いた。
それはあるとき助けてあるとき助けないこと。助けるにしても、言葉でやさしく励ましたり、強く「起きなさい」と言ったりする。これこそ統合の育て方である。
特に子どもが「愛されていないのではないか」との不安と恐怖にとらわれたときは助けに行かねばならない。ときには甘えているなとわかっても助ける。
そのためには子どもを注意深く見つめていなければならないだろう。そして、これだけ離婚全盛社会になった以上、社会は一人親を援助するシステムを早急につくるべきだ。
また、学校の先生方へ。
あなたこそ統合の人格者となって子どもを指導して欲しい。
今学校の先生方はかなり批判者、傍観者が多い。脅迫者、受容者タイプは少数となった。しかし、たった一人の脅迫者、その脅迫的暴力的生き方は学校を支配する。
脅迫者に「暴力」を振るわせてはいけない。その暴力は先生と生徒間にできつつある暖かで穏やかな交流を一撃で破壊する。
脅迫者が生徒に暴力を振るう相手は「脅迫的な生徒」であることが多い。だから、やむを得ないと思いがちである。
だが、脅迫者の「一撃・一喝」は、脅迫的生徒以外の(優しい穏やかな)生徒たちを萎縮させる。そして、彼らを傍観者と受容者タイプに追いやる。
それは一人(もしくは数人)の脅迫的先生に振り回されて、傍観者となっている先生方と同じである。
なおかつこの脅迫的先生が脅迫者の程度を深めることで、脅迫的生徒が「言うことを聞いて穏やかになる」かと言うと、そんなことはない。暴力による支配が被支配者の暴力的反乱を招くのは長い歴史で証明済みではないか。
学校が暴力による支配を意図したとき、脅迫的生徒の「反乱の暴力」はもっと激しくなるだろう。この脅迫的生徒が他生徒に対して暴力・いじめを始めたとき、他生徒はもっと傍観者となり、受容者タイプとなる。彼らは「暴力」に対して抵抗することができないからだ。
だが、脅迫的な先生を排除してはいけない。彼は職員集団の中で最も勇気ある先生である。彼は同僚から愛されていない、生徒から尊敬されていない。その寂しさと不安を「怒り」を爆発させることによってうち消そうとしている。すぐに怒る彼こそ最も自分の感情をコントロールできない弱々しい人間である。
また強烈批判者も暴力こそ振るわないが、脅迫者と同程度に学校内を暗くする。彼が繰り出す小言・説教・叱責・注意という「言葉による批判」もまた、人を不快にさせるだけだ。
そして、事態をただ傍観しているだけの先生からは同僚はもちろん生徒だって、何のエネルギーも与えられない。
さらに、脅迫的先生や脅迫的生徒について、愚痴と泣き言を並べ立てる受容者タイプの先生だって、生徒の悪を見て見ぬふりをしたり、生徒を叱ることができなくては事態は悪くなるばかりだ。
学校の先生こそ時には強く激しく、時には厳しく懇々と説き、時には突き放して改善を待ち、時には許し甘えさせる――そのような「統合の人格者」を目指してほしい。
特に子どもが「愛されていないのでは」との不安と恐怖を感じたときは必ず助けに行くことだ。
そして、先生が子どもをじっくり見つめられるよう1クラスの人数を20人にすること、学校のシステム作りを早急に構築する必要があると思う。
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:本文末尾に「1クラスの人数を20人にする」ことが提言されています。
近年ようやく45人から40人、そして35人と減らされてきました。
だが、20人への「道遠し」と言うか、文科省・政府・議員にやる気はなさそうです。オゼゼもない?
しかも減らしながら、未練たらしい問題・愚策も発生させています。
それはこのような一見教員の負担を軽減する措置を実施すると、必ず「地域や学校独自に何々をしなさい」との通知がくっつくことです。結果、教員が自由に使える時間は減り、負担がかえって増える。「ゆとり教育」という、教員にゆとりを与えない教育がいい例でした。
最近小中高の授業を5分〜10分減らそうとの提起があるようです。
が、やはり減らした時間は「何々をしなさい」と来る。何をやったか各校、各県に報告を求める。やれやれ。
そもそも教育内容(カリキュラム)が減らなければ、その分が詰め込みとなって児童生徒に負担となる。落ちこぼれがさらに増えるだけ。
結果、授業時間を短くした先に何があるか。「学力低下が甚だしいから元に戻す」となるのがオチでしょう。
どうやら彼らの頭の中には「教員を楽させると働かなくなる」があるようです。だから、「あれせえ、これせえ」と課題を与え報告を求める。結果、学校はますます劣悪な職場と化し、教員志望者は減り続ける。一体いつになったら気づくのでしょう。
おヒマなら以前書いた教育・学校への提言をお読みください。
かなり斬新な案を。しかも、一部の変更ではなく、全体を変えようとの趣旨で語っています。
→『一読法を学べ』提言編 U 45〜57「新しい教育システムの構築」
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