四国室戸岬双子洞窟

 『空海マオの青春』論文編

 後半第 4

プレ「後半」その3(二)


 本作は『空海マオの青春』小説編に続く論文編です。空海の少年期・青年期の謎をいかに解いたか。空海をなぜあのような姿に描いたのか――その探求結果を明かしていきます。空海は何をつかみ、人々に何を説いたのか。私の理解した範囲で仏教・密教についても解説したいと思います。

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『 空海マオの青春 』論文編    御影祐の電子書籍  第275 ―論文編 後半04号

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           原則月1回 配信 2024年10月16日(水)


 『空海マオの青春』論文編 後半 第4号 その3(二)「四苦八苦と四喜八喜」

 本節は2013年『空海論文編』前半冒頭に掲載した文章です。
 それは同時に2004年『狂短歌ジンセー論』創刊号の文章でもあります。
 つまり、ある意味私の根幹をなす考え方と言えましょう。それが空海全肯定につながっていたとは後にわかりました。

 プレ「後半」その3 空海論「前半」再掲載
(一) 理屈と感情        10月09日
(二) 四苦八苦と四喜八喜    10月16日
(三) 観念論と唯物論      10月23日
(四) 空海「即身成仏」と全肯定 10月30日


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 本号の難読漢字
・四苦八苦(しくはっく)・雅(みやび)・滑稽(こっけい)・生老病死(しょうろうびょうし)
・愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとっく)
・五蘊盛苦(ごうんじょうく)・自足(じそく)
 以下は造語
・四喜八喜(しきはっき)・尊愛会喜(そんないえき)・愛別離喜(あいべつりき)
・知足得喜(ちそくとっき)・五蘊盛喜(ごうんじょうき)
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***************** 空海マオの青春論文編 後半 ******************

 後半第4号 プレ「後半」その3(二)「四苦八苦と四喜八喜」

 人生について考えていたとき、ちょっと面白い親父ギャグを思いついた。
 題して「四喜八喜の人生」――もちろん有名なことわざ、「四苦八苦」の逆パターンだ。

 四苦八苦とは人がとても苦しいとき、一生懸命がんばっているときによく使われる言葉。
 しかし、この言葉は仏教本来の意味を持っている。

 それはまず人が抱える四つの苦しみ――「生老病死」の四苦を根本として、さらに次の四つの苦しみを言う。

 第一に、愛別離苦(あいべつりく)
 第二に、怨憎会苦(おんぞうえく)
 第三に、求不得苦(ぐふとっく)
 第四に、五蘊盛苦(ごうんじょうく)

 仏教では生老病死の四苦と、この四苦を合わせて《四苦八苦》と呼んでいる。

 生老病死の四苦とは――生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみの四つ。正に人間の不安と恐怖、悩みと苦しみをずばり言い得て素晴らしい(?)言葉だ(^.^)。

 だが、私は思う。
 人生とはかく言うほどに苦しみの連続なのか。そんなに苦しくつらいことばかりなのか。
 むしろ、これを逆に言うことはできないだろうかと。

 そのようなことを考えているとき、ふと「四喜八喜(しきはっき)」の言葉が浮かんだ。
 人生における四つの喜び、さらに四つの喜び……人にはそれがあるではないかと。

 まずは生老病死の《喜び》(^_^;)について。

 第一に生きることの喜び――
 人生には自然の美しさに触れ、人の温かみや優しさに触れ、家族・友人と共に生きる喜びがある。学ぶことで新たに知る喜び。働くことで自己を実現する喜びがある。
 仕事は確かに辛いこと、いやなこと、苦しいことが多い。だが、働くことで張り合いと生き甲斐を持てる。あるいは、趣味やボランティアによって生き生きと活動することができる。それは人生における《喜び》と言えるのではないか。

 第二に老いる喜び――
 年を取ってようやくいろいろなことを味わえるようになる。食べること、遊ぶこと、仕事。若い頃はただがむしゃらに《食べる》だけだった。年を取るにしたがってようやく《味わえる》ようになった。そして、高齢者になったときは《長老》として後輩や若者達を見つめる喜びがあるのではないだろうか。

 第三に病気になる喜び(^.^)――
 病気になって初めて体験する感情がある。それは自分を「気にかけ、心配してくれる人がいる」とわかる感情だ。普段はしばしば口ゲンカをしたり、煙たい存在の家族であっても、病気になって「自分は愛されているんだ」と気づかされる。この人は《かけがえのない存在》であることに気づく。
 あるいは、病気になり、痛い目にあってやっと生活習慣が変えられる(^_^;)。病気になって初めて弱々しい人の気持ちがわかるようになる。それは病気になることで得られる、新たな喜びと言えないだろうか。

 第四に死ぬ喜び(^_^;)――
 死とは現世を離れ、違う世界へ旅立つことへの期待感……ということもできる。
 ある漫画家は人が永遠に生き続けることの苦痛を描いている。人にとって不老不死は永遠の願望かも知れない。だが、永遠に生き続けることが果たして幸せかどうか、ちょっと想像しただけですぐにわかる。いつかピリオドが打たれる。だからこそ限りある人生が光り輝く

 最後はかなりこじつけ臭いと言われそうだ(^.^)。
 しかし、私は「生老病死」とは四つの喜びではないかとあえて言いたい。
 もっと厳密に言うなら、四苦と四喜は五分五分だと思う。つまり、生老病死とは四つの苦しみであると同時に、四つの喜びでもあるのだと。
 もちろん四喜の前提として飢えがなく、戦争がなく、奴隷ではなく、差別や迫害を受けない世の中である必要があるだろう。

 さて、それでは愛別離苦をはじめとして、さらに四つの苦しみを四喜とこじつける方はどうだろう(^_^)。

 第一に愛別離苦(あいべつりく)――
 確かに愛する人と別れ、離れなければならないことはつらい。しかし、別れがあるからこそ新しい出会いがある。
 愛する親が死ぬことは悲しい。だが、もはや自分を束縛する根源がなくなる。愛する伴侶、愛する我が子が死ぬことはもっと悲しくつらい。ときには「一緒に死んでしまいたい」と思うことさえある。
 だが、悲しみを乗りこえれば、自分が生きて残された意味や使命に気づくことがある。そして、今までと違う人生をゆっくり歩き始めることができる。

 第二に怨憎会苦(おんぞうえく)――
 確かに人はどこかで怨(うら)み憎む者と会わなければならない。それはいやなことだし、心は不快と嫌悪でいっぱいになる。そいつに頭を下げなければならないときは、もっとつらくて苦しい。
 しかし、離れ小島で一人暮らしてみればすぐにわかる。ひとりぼっちで人恋しいとき、あんな奴でもそばにいたらと思う。普段はいみ嫌っていた相手でも、二人だけで暮らしてみれば、誤解していたことに気づくかもしれない。

 どこに行ってもいやな人間はいる。だが、周囲の人間全てがそうではない。怨憎会苦(おんぞうえく)の裏には「尊愛会喜(そんないえき)」があると私は思う。愛し尊敬できる人と出会う喜びだ。
 その人と一緒にいると心が落ち着き、楽しくなる。わくわくする。友と一緒に遊ぶことはこの上なく楽しい。恋は成就しなければ苦しみばかりだけれど、出会いなくして恋は生まれない。つまり、人生には人と出会う喜びがあるのだ。
 そして、過去を振り返ってみたとき、「あの人と出会ったからこそ今の自分がある」――そう思える人が何人もいる。人と出会う喜びはこの人生にしかない。何と素晴らしいことかと思う(^_^)。

 第三に求不得苦(ぐふとっく)――
 確かに求めて得ることができないのは苦しくつらい。物質的なものであれ、精神的なものであれ、我々にはほしいものがたくさんある。
 だが、「限りないものそれは欲望」という言葉もまた真実。求めるばかりで満足を知らないと、この苦しみは死ぬまで終わらない。大切なことは《知足》(ちそく)――足るを知ることではないか。

 足るを知れば、求めて得ることのできない苦しみはその途端に喜びに変わる。ああ、これを得ることができた――その喜びが心からわいてくる。
 何かを求めて生きてきた。そして、これまで生きて獲得したものがある。取りあえずそこで立ち止まって振り返るなら、自分はなんと多くのものを得てきたことかとわかる。

 ただ、満足することと、そこで求めることをやめることは違うだろう。私は足るを知りつつなお求めていいと思う。求めることは生きる上での張り合いを与えてくれるからだ。
 そもそも求めること自体は苦しみでも悪いことでもないだろう。満足できないことが苦しみを生むのだ。「こんなに求めているのに得ることができない。苦しい」と目をぎらつかせるのではなく、「今はこれだけを得た」と満足する。
 求不得苦ではなく《知足得喜》(ちそくとっき)――足るを知れば、人生はいつでもどこでも喜びが得られる(^_^)。

 最後に五蘊盛苦(ごうんじょうく)――
 五感(五官)が盛んであること。これはもう苦しみでも辛さでもない。ものすごい人間的感情であり、生命の高らかなる賛美の表現だ。それはむしろ「五蘊盛喜(ごうんじょうき)」と言うべきだ。

 苦しみや悲しみ、自分の痛みと人の痛み、人間以外の動物の痛み、物の痛み……それを感ずることのできる人。それこそ五蘊(ごうん)が豊かで盛んな証拠。素晴らしい人間ではないか。

 逆に、痛みを感じない人。人の痛み、動物の痛み、物の痛みを感じない人……そのような人は強い人と思われている。だが、鈍感で無神経な感性の持ち主であり、やせ細った心の持ち主ではないか。
 傷つくことのできる人、人の痛みを感じることのできる人こそ素晴らしい。五蘊盛苦ではなく五蘊盛喜――五蘊が盛んであることは喜び以外の何ものでもない。

 生老病死の四喜、愛別離喜、尊愛会喜、自足得喜に五蘊盛喜。四苦八苦の裏面には四喜八喜がある――私はそう思う(^_^)。

 いや、表が喜びで、裏が苦しみと言ってもいい。そして、苦しみを表に出すか、喜びを見いだして表に出すか。それはその人の生き方しだいではないだろうか。


  ○ 苦しみと 悩みを超える四喜八喜 生老病死に喜びを見る


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:前置きで書いたように、本文は2004年の『狂短歌ジンセー論』創刊号の文章です。それから約10年後の2013年、『空海論文編(前半)』の冒頭に掲載しました。さらに10年経った今でもこの内容になんの修正も加えようと思いません。

 振り返れば、これは私の《全肯定》だったか――そう思います。「四苦八苦なんぞしたくない」と誰でも思う。だが、その裏には《四喜八喜》があり、もちろん歓喜を否定する人はなく、全て肯定できる。

 あの頃「空海の最終境が全肯定である」ことなぞ全く知りませんでした。
 2013年の『空海論文編』創刊号末尾には以下のように書いています。
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 当時《四苦八苦》を《四喜八喜》と取る見方は、仏教用語を借りた思いつきに過ぎなかったのです。
 ただ、人生を苦しみの連続と見るか、それとも歓喜あふれる人生ととらえるか。
 私が十数年前に到達した境地は正に後者であり、その思いをこれまで小説やエッセーに書いてきました。今振り返るなら、その結果として空海の姿が見えてきたと言えそうです。

 どうやら空海は人生を充実させて生き、歓喜あふれる生き方を説いているようだ。それは私の到達点と一致している……その感触から私は空海を読み始めました。
 偉大な歴史的人物と平々凡々たる自分を並置するなど、おこがましいことながら、私は空海を読めば読むほど確かな手ごたえを感じました。その結果、様々な謎を解くことができたと自負しています。
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 最後には表が「苦」なら裏は「喜」である。いや、表が「喜」で裏が「苦」なのかもしれないともあります。コインに表裏はあるけれど、それは一体であると「20年前に書いていたのかあ」としみじみ思います。

 それから最近のニュースより一つ。
 目下ノーベル賞の選考シーズンですが、日本の被団協(日本原水爆被害者団体協議会)がノーベル平和賞を受賞しました。おめでとうございます。
 受賞理由は「核兵器のない世界を実現するための努力と、目撃証言を通じて核兵器が二度と使用されてはならないことを実証したことに対して」とあります。

 同団体は1956年結成、以後核兵器廃絶を訴えてきました。ロシアやイスラエルが核兵器を後ろ盾にして戦争に突き進む今こそ、核廃絶を世界の誓いにしようということでしょうか。
 残念なのは日本がいまだに「核兵器禁止条約」に参加していないことです。
 そのうちこの問題を取り上げたいと思います。

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