バイヨン寺院

ワット驚くアンコール

また旅日記


10 現地最終日午後 

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※ ヴィジュアル歴史レリーフ [26枚] 

   @ バイク・タクシー
   A 再びバイヨン寺院へ
   B 意外な発見
   C 死者の門
   D 別 れ



@ バイク・タクシー

 昼食はクメール風中華料理だった。カンボジアに来て以来、食事の味付けなどは日本人に結構合っていると思っていた。しかし、さすがに少し飽きが来始めていた。今晩の夕食は市内唯一の日本料理だけれど、あまり期待していなかった。それに明日にはもう日本で純然たる日本食を食べているはず。最終日の夜現地で日本食を振る舞われてもあまり嬉しくないに決まっている。なぜ昨日か一昨日に日本料理にしなかったかと言うと、ホテル側が夕食を抜くことにいい顔をしなかったらしい。四連泊ではさもありなんてところか。
 このとき全体記念写真を撮ってくれた人から写真を送るので、住所を書いてほしいと言われた。寄せ集めのツアー旅行では珍しいことだ。送料は向こうで持つという。少しためらったけれど、断るほどの理由はない。そう思って私もM氏も住所を書いた。全員書いたようだ。するとその人はこんなことを言い出した。以前違うツアーで同じように全体の記念写真を撮り、送るので住所を書いてほしいと言ったら、断る人がいたと。今の日本では住所や電話番号を記すと、何に利用されるかわからない怖さ、薄気味悪さがある。私が少し躊躇したのもそんな気持ちからだった。断ればせっかく仲良くなった旅の道連れとの仲をそぐことになる。しかし、今の日本なら書きたくないと言う人がいてもおかしくないと思った。
 昼食後一時頃私はみんなより早めに外へ出た。セィリーに告げると既にバイクタクシーが来ていた。運転手はマフィ君という二十歳前後の青年だ。英語はできるが、日本語は全くわからないと言う。約束では私をバイヨン寺院に連れていき、その後ホテルまで戻ってくることになっていた。費用は四ドル(約五六〇円)。三時間走ってもらってこの値段ならかなり安い。セィリーが「お金はホテルに戻ってから払って下さい」と言った。後払いの件はガイドブックにも書かれていたので、私はうなずいた。
 昼食のレストランは中心街のやや南にあった。早速マフィ君のバイク後席に乗って町へ繰り出す。もう道はあらかた覚えたので不安はない。バイクは時速四十キロほどで軽快に走る。時折マフィ君が何か英語で語りかける。どうやら道のそばの建物について説明しているようだ。それがなかなか聞き取りにくいので、私は曖昧な返事をしていた。そのうち彼は喋らなくなった。いつもの道を北へ向かい、やがてパスポート関所を通る。もちろん私の遺跡見学用パスポートを見せる。女性係員がパンチで穴を開ける。私は「オークン」と言った。彼女はにこりと微笑んだ。それからさらに北へ向かう。暑いけれども、バイクは風を切って爽快に走る。今までシェム・リアップ市内の移動はずっとエアコンの効いたバスだった。初めてアンコールの風を身体で感じた。左右は密林。向こうからバイクや自転車、車がやって来る。こちらも自転車やのろいバイクを追い越し、車に警笛を鳴らされて追い越される。何だかわくわくするような開放感があった。
 やがて密林を抜けアンコール・ワット南の三叉路に出た。そこを左折し、ワット西門参道前の道を北上する。参道では午後の観光客がたくさん歩いている。私はアンコール・ワットの石塔を右から左へと移動しながら見る形になった。バイクの進行でとんがり帽子の五本塔が三本になりまた五本になる。それが何とも言えず爽快だった。そして、アンコール・トムの南大門をくぐる。ここでは蝉時雨がかしましい。巨木が乱立する中を走ると、すぐに廃墟のバイヨン寺院が見えてきた。東側テラスの前でバイクタクシーは停止した。一時半近かった。
 私は余裕を見て三時にここを出発しようと思った。そこでマフィ君に「プリーズ、ウェイト、スリー、アワーズ」と言った。そうしたら彼は腕時計を指し示して「スリーオクロック?」と言い直してくれた。私は「イエース、イエース、ウェイト、スリーオクロック、オッケイ?」と言う。マフィ君は「オッケイ」と答えた。彼は向こうにある土産物屋で休憩するようだ。私はそこで彼と別れた。



A 再びバイヨン寺院へ

バイヨン四面観音像
 係員にパスポートを見せた後、テラスを進んで中へ入った。ここで私はちょっとしたミスを犯した。私は第一回廊の歴史絵巻を見たかったのだが、誤って第二回廊へ入り込んでしまったのだ。そこはセィリーの案内では行かなかったところだ。だが、そこでも第一回廊と同じような戦闘場面や行進する軍隊が描かれていた。象に乗る将軍、傘を差し掛ける従者、軍隊の先頭に立つ兵士は風になびく旗を掲げている。私はそこが第二回廊と気づかず、丁寧にレリーフを眺めていった。
 昼下がりのこの時間帯観光客は皆無だった。時折修復作業をする人が数人いた。そのうち私はどこか妙だなと思い始めた。昨日ここを見学したときの絵柄が出てこないのだ。しかし、右と左から進軍して闘うオールバックのクメール軍やちょんまげ頭のベトナム軍などは同じように描かれていたので、暫く気づかなかった。
 私はジャングルを飛ぶ鳥、槍や盾、武具を乗せた車を牽く馬など、かなりじっくり眺めた。また王様らしき人をうちわであおいでいたり、漁師が王に大きな魚を差しだす場面があったりした。その魚の中に描かれているのは女神だった。このときふと昨日こんな絵を見たっけと思い始めた。そして、一周したのに昨日の絵柄が出てこない。しかも、壁が至る所で黒ずんでいたり、雨滴のせいかとても汚れている。天女像が朽ちて溶けかかっていたりした。そこでやっとここは第一回廊ではなく、第二回廊ではないかと思い当たった。
 私は外側に向かって石組みの階段を下り、漸く昨日見学した壁の下に出ることができた。そこからは昨日の絵柄を確認しつつ、再度ゆっくりじっくりと見始めた。昨日以上に感動的だったのは、戦闘場面のリアルさだ。闘いの場で、ある兵士は敵の頭を抱え込んで今にも剣を突き刺そうとしている。別の兵士は逃げようとする敵の髪をつかんで、背後から槍を突き刺している。髪をつかまれのけぞる兵の動きが何ともリアルだ。弓矢をきりりと引き絞る兵士達がいる。そのそばの地面には切断された首が転がっている。それが戦争の最前線なら、行軍の後ろの方はだんだんのんびりムードになってくる。セィリーはその辺は人民の生活だと説明した。だが、私には闘いの最前線の激烈さに対して、後方待機軍のかなりいいかげんな生活を描いているように見えた。投網をして魚を捕ったり、料理の準備をしているのはまだいい。しかし、闘鶏の賭事をやり、船の上で酒を飲み雑談を交わす。船上の宴会では面白おかしく手を振り上げて踊っている輩もいる。すると、真ん中の船長らしき男は指差して「おいお前、いい加減にしろ、今は戦時中だぞ」と注意しているかのよう。ずっと眺めていくと、昨日見た絵柄も含めて何てリアル、かつ何て人間的であることかと思った。良くも悪(あ)しくも戦時下における人間のドラマを描き上げているのだ。壁面は三部構成の上中下に分かれている。中段はジャングル内での闘い、下部は軍船を使っての海戦。その迫力、力強さ。正にヴィジュアルな歴史絵巻だと思った。



B 意外な発見

 私はそのときふとあることに気づいた。湖上戦における最前線の場面の絵柄だ。右側の船上ではオールバックで耳が長いクメール(カンボジア)軍の兵士が槍を構えて立ち、左側の船上ではちょんまげ頭のベトナム軍の兵士が同じく槍を構えて立っている。船の下にはたくさんの魚が泳いでいる。そして、船の船腹には頭だけが進行方向と逆向きに描かれ、その下からオールが出ている。だから頭だけ描かれているのはオールをこぐ兵士(または人民)だとわかる。ある箇所ではそれが船上と同じ顔かたちだから、同国人だとわかる。だが、別の所ではそれが交差していたのである。つまり、クメール軍のオールこぎはちょんまげ頭のベトナム人で、反対にベトナム軍のオールこぎは耳長オールバックのクメール人だったのである。
 それに気づいたとき私は鳥肌が立った。そうか、この原画を描いた画家はそこまでしっかりと戦争を見つめていたのかと思った。考えてみれば、戦争の激化と共に敵国の捕虜をオールこぎとして使うことは大いにあり得ただろう。今と違って捕虜虐待禁止条約があるわけではない。自国人民をオールこぎとしてこき使い、海のもくずにするくらいなら、捕まえた敵国捕虜を使った方がいい。捕虜だって死にたくなければ、一生懸命オールをこぐしかない。いや、オールをこがなければその場で殺されるのだ。それが戦争の非情さだ。しかし、昨日見ていたとき私はちっともそのことに気づかなかった。
 私は先日久しぶりに見た映画「ベンハー」のガレー船を思い出した。マケドニアの海賊と闘うローマ軍の軍船。そのオールこぎはみな罪人達。そこに無実の罪でガレー送りとなったユダヤの若者ベンハーがいた。普通一年も生きられないガレー船で、ベンハーは三年生き抜いた。そして、ベンハーは不思議な縁でローマ軍大将を助け、その後復活する。ここカンボジアではおそらくトンレサップ湖における湖上戦。だが、ここでも古代ローマ時代と同じような水上の闘いがありドラマがあっただろう。あるいは、ベンハーのような物語が生まれていたかもしれない。
 軍船のオールこぎが交差していることに気づいてから、私はもう興奮状態。ここまで描ききるのかと思った。そこまで厳密に見つめるのかと思った。今は昼下がりの時間帯なので、観光客は時折やって来るだけ。その人達もここはさらりと通過して上の四面観音像を見に行く。辺りはしんとして見学しているのはほとんど私一人と言って良かった。蝉時雨はここまで届かない。そんな静寂の中でここにいると、まるでジャングルや湖で闘う兵士達の合戦の声が聞こえてきそうな気がした。この彫刻壁画はそれほど迫力ある歴史絵巻だった。
 そして、さらに考えたことがある。それはここが仏教寺院だということだ。バイヨンは四十九の石塔先端に四面観音像をいただく仏教の聖地であり、ここはその第一回廊。つまり、信仰篤き善男善女が集まり散策する一番外側の回廊だ。この原画作者はそこに歴史絵巻の戦争レリーフを彫り込んだのだ。地獄でも極楽でもなく、あまりに現世的過ぎる戦争。想像の血の池地獄でも針の山でもなく、また、蓮の花が咲き誇り天女が踊る美しき極楽世界でもない。この作者が描いたのはジャングルと広大な湖上での生々しい戦争。自国クメール軍と敵ベトナム軍の戦闘や、そこに従軍した一般人民を描いたのだ。それも敵味方隔てなくほぼ同じ構成で。船も槍も盾も鎧もほとんど区別が付かない。違うのは顔かたちだけ。後はほぼ同じ。人民の暮らしは一つ描けば充分なんだ。その生活に敵味方の違いなどあるはずがないから。
 十二世紀から十三世紀にかけて、ここを訪れた善男善女は回廊の絵を見てどう思っただろう。戦争で殺し殺される残酷な地獄絵図を思い出したか。戦時下での苦しい生活を思い起こしたか。年が若ければ、あるいは戦争の経験がなければ、闘いの高揚感をかき立てられたかもしれない。うまく立ち回れば、戦時下だって生き抜けるもんだとほくそ笑んだ人がいたかもしれない。敵も味方も人々の苦しみは変わらない。戦争は悲惨だと心を痛め、さらに信仰の思いを深めた信者もいただろう。
 だが、参詣者がこの彫刻壁画を見て、ただ単に非戦・反戦の気持ちを抱いたかと言うと、私は少し違うような気がした。例えば、ヒロシマ、ナガサキ、アウシュヴィッツ――それらの戦争や戦時下を描いた諸々を見るときとは違うように思える。確かに最前線の闘いは悲惨だ。だが、後方では人民がしたたかにたくましく生きている。最前線で愛する者のために闘い、いやだと思いながら闘っている兵士に対して、後方でたくましく、同時にずるがしこく生きているかのような人民。普通なら聖戦の名のもとに、そのずるさやいいかげんさを否定するだろう。だが、この壁画はそれら全ての営みを肯定しているように思えた。もちろん戦争自体を肯定しているはずはない。原画作者は教え諭(さと)している。ただ顔と形が違うだけで、全く同じ暮らしと生き様を持つ人間が殺し合う、その愚かさや悲惨さを気づきなさいと。しかし、その一方でこの壁画レリーフは、人間のもろもろの感情や生活を全て許容しているような、大らかさと懐の深さがある。仏教信者はこれを見て仏への信仰を一層深く篤(あつ)くしたかもしれない。だが、この戦争レリーフは一宗教の意図する世界へ人を導こうとするのではなく、人間のあるがままの姿をただそのままに描いている。そうすることで人は同じ痛みを感じ、同じ心を持つことを教えようとしているように思えた。
 昨年の暮れ私は姪に誘われて「風の谷のナウシカ」漫画本を読んだ。その中でも(言葉は悪いが)魅力的に描かれていたのは戦闘シーンだった。そして、今年二月ニュープリント版で見た映画「ベンハー」。それもまた闘いと憎悪を包み込むキリストの愛が感動的に描かれていた。そうして、私はたまたま訪れたアンコール・ワットでも、やはり戦争絵巻の大レリーフを見出す。私は思った。戦争――そこには人間の全てが凝縮されている。いつか私もその壮大なドラマを描いてみたいと。
 このバイヨン寺院再訪が私にとって最後のアンコール遺跡となる。私は今日もう一度やって来て良かったと思った。やはり昨日の見学だけでは充分でなかった。昨日この戦争レリーフを見歩いたとき、何となく感じていた物足りなさ。もう一度バイヨン寺院を見に行きたいと何となく思った。今日いろいろな状況は全て私に都合良く働いた。そうして私はその思いをバイクタクシーに乗って実現することができた。私はそんな行動を起こさない選択だってできたろう。ツアー仲間と一緒にお土産屋巡りをのんびり楽しんでも良かったのだ。だが、私は自分の直感――もう一度バイヨン寺院の壁画を見に行きたい――の方を大切にした。その結果、私は再度戦争レリーフを眺め、昨日は気づかなかったことを発見できた。
 この偶然の旅で私はまずトンレサップ湖畔の困窮した子ども達を見せられ、ショックを受けた。それは向こうからやって来た偶然だった。そして、今度は自分から進んでバイヨン寺院を二度見学した。これは自分から進んで偶然を起こしたことを意味している。この試みは成功したと言えそうだ。二度目の見学は一度目以上の感激を私に与えてくれたからだ。自ら進んでもう一度バイヨン寺院の歴史レリーフを見ることは、私にとって必要なことであり、大きな意味があったのだ。
 時計を見ると三時が近づいていた。もっといたかったが、そういうわけにはいかない。もう二度と来ることはないだろう。そう思って私は残り十分ほどの間、早足で第一回廊だけをぐるぐると二度回った。その途中で十二、三歳ほどの現地の男の子二人と出会った。彼らは一人の私を案内するつもりなのか、声をかけてきた。私はカンボジアが素晴らしい文化遺産を持っていることを二人に伝えたいと思った。そこで船上の兵士とオールこぎが敵味方交差している場面を示しながら、素晴らしい壁画であると興奮気味に話した。すると、彼らは意外と冷静で、あっさり知っていると言った。彼らの関心はそんなことよりも、私を案内することでチップをせしめることにあるように見えた。私はガイドはいらないと言って彼らと別れた。その後石塊に座っている監視の女性係員に出会った。一周してもう一度会ったとき、私は日本語で「素晴らしい! このレリーフは最高です」と言った。その意味を理解したのかどうか、彼女はにっこり微笑んだ。

☆ 昼下がりのバイヨン回廊わたし一人遠い昔の人の声を聞く



C 死者の門

 三時過ぎ東テラスの前では約束通りマフィ君が待っていた。すぐにホテルへ帰ろうと思ったが、彼は「次どこ行く?」と聞いてくる。ここから三十分もあればホテルへ戻れるので、どこかもう一カ所くらい見られそうだ。私はふとこのアンコール・トム東側の「死者の門」へ行っていないことを思い出した。それは今いるバイヨン寺院から東へ真っ直ぐ一キロ半行けばある。他の門と違う何かを発見できるかもしれない。これもまたたまたまであり、偶然の産物。そう思ってマフィ君にそこへ行きたいと言った。彼は気軽にオッケーと答えた。
 すぐバイクに乗って東へ向かった。その道はあまり車などが通らないらしく、他の道以上にガタゴトしていた。道の左右は巨木と緑のジャングル。数分で死者の門に着いた。白人観光客の一団がいた。私の期待に反してその門は他の門と何ら変わりなかった。むしろ勝利の門や南大門以上に崩壊していた。がっかりしたけれど、偶然にはそんなこともある。そう思ってそこからはホテルへ帰ることにした。マフィ君に「サンキュー、ウィ、ゴゥ、ホテーォ」と言った。彼は「オッケィ、オッケィ」と応じた。バイクのかかりが悪かったので、ひやりとした。
 死者の門から外への道は行き止まりになっている。我々はもう一度バイヨン寺院へ引き返し、南下して南大門をくぐった。そして、アンコール・ワット西参道沿いの道をさらに南下する。そこは一度も通ったことがなかったけれど、地図からは知っていた道だ。マフィ君はどうやら旧道を通って中心街へ戻るようだ。私はマフィ君に「壁画レリーフは素晴らしい!」と(英語で)声をかけた。彼は「イエース、イエース」と頷いていた。やがて北上したときとは違うシェム・リアップの町並みが左右に広がってきた。ホテルや学校、トタン屋根、木造の家々が連なる。その後中心部に近づいたとき四時までまだ時間があった。私はもう一つか二つお土産がほしいと思った。そこで彼に「オールド・マーケットを知っているか」と聞くと「知っている」と言う。そこへ行けるかと聞くと「オッケー」と来る。バイクは町の中心部をさらに南下してオールド・マーケットまで行った。道の両側に十数軒の土産物屋が並んでいる。私はそこで木の実を模した小さな置物を買った。そして、慌ただしく彼のバイクに乗って四時過ぎホテルへ帰り着いた。



D 別 れ

 ホテル前の路上で私は彼に「オークン」と感謝の言葉を述べ、料金の四ドルを渡し、チップとしてもう一ドル追加した。そして、ホテル前で並んで写真を撮った。ホテルのボーイに頼んで撮ってもらった。四十枚撮りの使い捨てカメラはもう一枚分フィルムが残っている感じだった。写っていなければ、それでも構わないと思った。(帰国後現像したら、マフィ君と私が並んだ写真はばっちり写っていた。)
 ホテルに入るとツアーの人たちがロビーで着替え等を行っていた。私もバッグから帰国用の服を取りだした。まだ夏の服装で間に合うけれど、明日の朝日本に着いたときは冬に逆戻り。洗っていた長袖シャツを着て、バッグからいつでもセーターやブルゾンを取り出せるようにした。M氏と再会して話を聞いた。彼は昼食の後皆とオールド・マーケットに行き、その後あの付近を同行男性と二人で歩き回ったとのことだ。私は午後のちょっとした冒険談を語った。そして、これで旅は終わりだなと二人で確認した。
 その後は五時にホテルを出発、シェム・リアップ市内唯一の日本料理屋に行った。カンボジア風味付けの日本料理を味わった。ご飯はやや粘りけがあり、日本米に近かった。白菜の漬け物がピクルスのような味だったのはご愛敬か。私は早めに食べ終わったので、別席にいたセィリーの所に行き、バイクタクシーを世話してくれた礼を述べた。それから、少し午後のことを話した。マフィ君がいい青年だったこと、とても楽しかったこと。そして、バイヨン寺院の壁画でカンボジアの軍船とベトナムの軍船のオールこぎが敵国の捕虜であることを話した。私はセィリーがそのことを気づいていないのではないかと思ったからだ。ところが、セィリーは「もちろん知っています。昨日私はそのことも話しました」と言った。私は少々きまりが悪かった。してみると、昨日私がただ単に彼女の説明を聞き落としていただけなのだ。それを知って私は不思議な気がした。もし昨日そのことを彼女から聞いていたらどうだったろうと考えた。おそらくそのときは、へえっと感心したにとどまったのではないか。今日オールこぎが捕虜だと気づいたときほどの感激はなかったに違いない。たまたま昨日聞き落としていたから、今日再訪することで自ら発見した感激が加わったのだ。昨日セィリーの話をちゃんと聞かなかったことは、私のミスであり失敗。だから、もし今日再訪しなければ、そのことは知らないままで、バイヨン寺院は単に印象的な遺跡の一つで終わったかも知れない。言わば、アンコール観光最終日の大感激はなかったことになる。ところが、私は今日バイヨン寺院へ行った。(言い方はおかしいけれど)セィリーの話をしっかり聞いていなかったからこそ、今日の発見と大感激があった。結果から見ると、私は直感に従って行動することで、そのミスを取り戻していたことになるし、一つのミスがより大きな成果を生みだしてくれたと言えなくもない。私はバスに乗った後そんなことを取り留めもなく考えていた。
 午後六時過ぎ私たちはシェム・リアップ空港へ向かった。次第に夕暮れが迫ってくる。バスはガタゴト道をガタゴト走る。このガタゴトとも今日でお別れ。何年か経って道はもっと良くなるのだろうか。せめて日本の舗装路なみになってほしいと思いつつ、逆にいろいろなものはそのままであって欲しい気もした。完全に修復再生された美しい石造り寺院を見たいと思いながら、ガジュマロの巨木に覆われた廃墟の寺院は、さらに数百年巨木を生きながらえさせて欲しいと思った。しかし、いずれにせよそのことを決めるのはカンボジアの人々だろう。日本料理屋で私は最後にセィリーに言った。生きていれば、十年後か二十年後また来てみたい。そのときシェム・リアップの町はどんなに変わっているだろう。あるいは変わっていないか、それを見てみたいと。
 空港までの短い道中、セィリーが復習だと言っていろいろな遺跡クイズを出した。それも最後の楽しみ。空港に着く前、みなで用意したチップを、(一人一ドル集めたようだ。私は知らなかったが、M氏が立て替えていた)セィリーと運転手に渡した。空港前で彼女と最後のお別れ。セィリーは近々結婚するらしい。結婚しても仕事は続けると言う。同行おばさんから「日本に新婚旅行に来たら」などと声がかかる。彼女は「行きたいんですけど……」と言って口ごもった。山崎嬢がその先を補った。カンボジア人が外国へ行くのはまだかなり難しいとのこと。それから空港前で彼女と握手して別れた。しかし、何かあったらということで彼女はまだ暫くガラスの向こう側に待機していた。やがて私たちが通関を通る頃、やっと彼女と手を振って別れた。
 その後はシェム・リアップ空港を飛び立ちタイのバンコクへ。そして、タイを午後十一時半に飛び立って日本へ向かう。成田に到着するのは早朝七時前になる。今度は行きと違い偏西風に乗って四、五十分早く着く。なおかつ到着時刻は既に時差二時間を引いてある。だから、タイを飛び立つときを日本時間で言うと午前一時半。日本到着が七時前だから五時間半ほどで着く感じだった。
 私は飛行機の中でこの旅を振り返った。何か新しい偶然や発見があるだろうかとアンコール・ワットへやって来た。左足甲の通風が再発しかけ、びくびくしながらのツアーだった。しかし、幸い痛みはひどくならなかった。そして、シェム・リアップの町でいろいろな遺跡を訪ね歩いた。とても充実した四日間だと思った。このお昼寝付きのアンコールツアーを選んだのは全くの偶然。だが、思いがけずゆったりと旅を楽しめた。私はたまたまこのツアーを選んでくれたM氏に心の中で感謝した。
 初日トンレサップ湖クルーズが午前中に変更になったのも偶然。しかし、そのおかげでまずシェム・リアップの最低層の生活を見ることが出来た。赤ん坊を抱きながら必死に恵みを乞うた少女。その眼差しはずっと私の心に焼き付けられた。それが前半のショックだったとするなら、後半はバイヨン寺院第一回廊の歴史絵巻に尽きるだろう。私は小さな冒険に乗り出し、その壁画レリーフを二度も見ることができた。現地のバイク運ちゃんの若者と束の間心を通わせた(彼にとっては単なる旅人だろうが)。これら偶然の中に今の私が必要とする多くのことを体感することができた。
 私は飛行機の狭い座席に身を沈めながら思った。二度目の海外旅行は本当に充実した旅だったと。


→「ワットまた旅日記」 ラスト





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