目次 事伝体項目
**************************************
3 宿と温泉とおヤジさん−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−《本頁》
山形酒田簡保の宿〜大鰐温泉国民宿舎〜盛岡つなぎ温泉ホテル大観〜仙台メルパルク
SENDAI〜福島岳温泉ヘルシーパーク
4 偶然の出会いと出来事−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−《次頁》
三内丸山、同姓同名の最優秀写真作品・自衛隊との遭遇
**************************************
山形酒田簡保の宿〜大鰐温泉国民宿舎〜盛岡つなぎ温泉ホテル大観〜仙台メルパルク
SENDAI〜福島岳温泉ヘルシーパーク
10月28日初日、私と父は東京町田から愛車ウィンダムに乗って出発した。関越道で新潟まで行きその後は国道7号線で日本海沿岸を北上した。この日は山形県酒田市までほとんど移動に終始した。見学に立ち寄ったのは鼠ヶ関(ねずがせき)の弁天島と羽黒山だけ。羽黒山は日がとっぷり暮れる寸前で、闇夜ならぬ闇夕刻の羽黒山神社となってしまった。その後私と父は1時間ほどで酒田市にある簡保の宿に到着した。もちろん外は真っ暗、午後6時を過ぎていた。
この宿は湯野浜温泉の一角にあり温泉も出る。建物は大きく、「虹色の湯」と銘打つだけあってジャグジー、打たせ湯、寝湯、サウナに露天風呂もあってかなり豪華。夕食もまずまずだった。
父はとても饒舌で酒を飲みながらたくさん語った。しかし、語ること十のうち八、九は既に語ったことばかり。軽いぼけが始まっているのかもしれない。私は「前に聞いたよ」とも言わず、父の話をうなずきながら聞いている。それでも十のうち一、二は新しい内容が入る。それはつい先日親戚の伯父宅で稲の刈り入れを手伝ったときの話なぞである。
今年の2月伯父(父の実兄)が亡くなってから、親戚は息子さん一家だけとなった。伯父宅は実家から車で30分ほどの所にある。父はそこの畑を借りて芋を植えたりしている。何より父は農作業の熟練だから、しばしば呼ばれて助言もしているようだ。
伯父宅には二十歳前後の孫が4人いる。稲刈りには娘達のカレシもやって来て手伝うという。稲刈りを終えると、夕食後みなでカラオケをやる。かなり賑わったらしい。ところが、父はそのとき「文部省唱歌メダカの学校を歌った」と言う。
私は「?」だったが、伯父家の面々も不思議な顔をしていたそうだ。後で父は種を明かした。甥の嫁さんの前でスカートをかき分けるような格好をして「そーっとのぞいて見てごらん〜」とやって見せたのだ。皆やっと春歌だったのかと納得した。
真面目一本に見える父がそんな姿を見せる。私自身もそんな血を引き継いでいるので、私も納得の面白いエピソードだった。
それからもう一点はちと物悲しい話。父は「つい最近Aコープで買った米に、大量の虫がわき出て数えたら200匹はいた」と話し出した。
それはつい最近のことではなく、私が帰省していた8月中の出来事だ。だから私は「その件なら私が帰省していた夏のことだよ」と言った。
すると父は「そんなことはない、つい最近だ」と主張する。私がなおいろいろ根拠を示しながら夏に間違いないと言うと、「お前がおったかのう」と呟いた。
また「隣から大きな牡蠣(かき)を貰った」話のときも、「私も食べたよ」と言うと、「お前がおったかのう」と同じ反応が帰って来た。
私は呆れた。そして「どうも親父さんの頭には私の存在が抜けている感じがする。ずっと独りぼっちで暮らしていて、その間私が帰っていても、自分は一人暮らしで不幸な人間のイメージを持ち続けているんじゃないの」と言った。父は苦笑していた。
夕食後部屋に戻って翌日の宿を探した。
今回の東北巡りでは初日の宿を数日前に予約しただけで、あとの四泊はどこに泊まるか全く決めていない。全て平日だし、その日の体調や行けそうなところを考えつつ、翌日の宿を決めることにしていた。明日の予定としては男鹿(おが)半島を見学して能代(のしろ)辺りで泊まるか、あるいは一気に青森まで行くか迷っていた。ガイドブックによると、男鹿半島の寒風山(かんぷうざん)からは八郎潟が一望の下に見渡せるらしい。
私は男鹿半島に行ったことがなく、それはとても魅力的だった。しかし、天気予報によると翌日も晴天が望めそうにない。そこで男鹿半島は諦めた。青森まで行くのもしんどそうなので、二日目はやや手前の大鰐(おおわに)温泉で泊まることにした。ここ簡保の夕食は量が多すぎて父も私も食べ過ぎ気味だった。普通の旅館だと食事が多いし料金も高い。そこで大鰐温泉では国民宿舎を選んだ。国民宿舎なら――変な言い方だが、夕食で腹が満ちることはない。宿もイマイチだが、料金の安さは保障済み。電話をすると簡単に予約できた。青森まで行かないので、明日は酒田市内をいくつか見学してまた国道7号線を北上することにした。
出発して二日目、酒田市で土門拳記念館を見学した後は、昨日同様国道7号線を北上した。
時々父に運転してもらって秋田を目指す。7号線は道幅が広いし、車も多くないので安心して見ていることができた。
途中秋田県立博物館に立ち寄っただけで、ひたすら海岸線を北上した。昼食は岩崎の道の駅で摂った。日本で初めて桟橋上の道の駅と紹介されていたのに、どう見ても砂浜の上で、桟橋上とはとても思えなかった。
稲庭(いなにわ)うどんがおみやけで売られていた。そうだ、秋田は稲庭うどんが有名じゃないか。そう思って私は天ぷらうどんを頼んだ。父はラーメンを注文した。
ところが、私のうどんは単なるうどんで稲庭ではなかった。
その後再び父が運転。かなり車にも慣れてきて軽快に日本海を眺めながら北上した。能代を過ぎると内陸へ入っていく。標識に大館・秋田北空港が出始める。その空港近くにストーンサークルの伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡がある。
ところが、能代(のしろ)市郊外でハプニング発生、危うく事故になるところだった。
それまで能代市内はずっと二車線だった。7号線は街中だと二車線になるが、町と町をつなぐ道では片道一車線となる。私は前日からの走行でそれに気づいていた。
車はそろそろ能代市を離れるので、また一車線に戻るのではないかと思った。このとき父がハンドルを握っていた。父はずっと左車線を走り続け、ある交差点にやって来た。そしてそのまま左車線で停止した。前には左ウィンカーを灯した普通車が一台。右車線には大型トラックが停止した。
私はふっといやな予感がした。
「親父さん、これって左折専用レーンじゃないかな」と言った。
父も「そうか……そうじゃなあ」と応じた。しかし、前々の状況は見えず、はっきりしたことがわからない。
やがて信号が青になり前の車が左折すると、目の前にはコンクリの土手が立ちふさがった。
やはり左折専用レーンで侵入ミスだった。
私は父が当然左折してその先どこかでUターンするだろうと思った。ところが、彼はそろそろ発進すると、突然ハンドルを切り右の大型トラックの前へ飛び出したのである。しかもウィンカーも出さないまま。
私は「危ない!」と叫び、同時に大型トラックからも猛烈なクラクションが鳴らされた。
幸い向こうが止まってくれたので、衝突せずに無事進行できた。
冷や汗もののニアミスだったが、事故にならずほっと一安心だった。
その後しばらく父は後ろや標識を気にしつつ運転していた。それまで父は運転で手一杯だったから、余裕がなかったのだろうと思った。ひやりとしたけれど、私はまあいいかと思った。
その後運転を代わり、秋田北空港手前で「伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡」を見学した。
伊勢堂岱遺跡を後にすると、ひたすら宿へ車を走らせた。
もう辺りは真っ暗。大館(おおだて)を通り過ぎ、約1時間半かけて大鰐(おおわに)温泉の国民宿舎へ到着した。
この日も部屋へ入ったのは午後6時過ぎ。そして、着いた途端またもハプニング発生である。
私たちは別館の408号室だと言われ、カギを持って部屋へ行った。父には国民宿舎は期待できない、タオルはないし、布団も敷いてくれない、飯のおかずは足りなくなると道中いろいろ語っていた。部屋に入ると予想通りタオルはなく、ポットは洗面台のところに逆さに置かれたまま。すぐそのポットに水を入れ、お茶を湧かした。ちゃぶ台の上にはお菓子用の皿があるだけで、中に菓子は入っていない。私はまあこんなもんだろうと予想していたから、別に不満はない。
湯はすぐに沸いた。お茶を入れ一息ついた。父は昨日の宿の菓子を取りだして、もぐもぐやり始めた。それから温泉へ入るため着替えを始めた。下着姿になって浴衣を探した。
ところが、羽織は4着あるのに浴衣は1枚もない。たぶん間違えたのだろうとフロントに電話したらすぐに持って行くという。
その後ルームサービスのお姉さん(おばちゃん)がやって来て話をしているうちに状況が判明した。
実は私たちが泊まる部屋は、隣の410号室(409号室はない。死と苦じゃ確かにないだろう)で、そちらで全てセッティングされていたのだ。
おばちゃんが言うには、この日は泊まり客が少なく、隣同士にならないよう一部屋あけてセットしたらしい。ところが、フロントはいつも通り隣の408号室にしてしまった。つまり、フロントのミスだった。
おばちゃんは隣に行ったらと言うが、既に二人とも下着姿だったので隣から全部持ってきて貰った。見ると浴衣だけでなく、タオルに歯ブラシ、バスタオルまである。
私が「あ、タオルがあるんだ!」と言うと、おばちゃん「それくらいありますよ」と言う。
私、「いやあ国民宿舎だから、全く期待していなかったんです」
おばちゃんは苦笑い。もちろんお茶受けの菓子も持ってきた。
私たちが風呂へ行こうとすると、おばちゃん「だったら、布団を敷いておきます」と言う。
私はさらに驚きまなこで「ええっ! 布団も敷いてくれるんですか」
おばちゃん笑いながら「よっぽどひどい国民宿舎に泊まったんですねえ」
それからフロントのミスなのに、おばちゃんは「部屋を間違えてすみません」と改めて謝った。
それに対して父が「間違いは誰にでもある」と答えた。
おばちゃんは「話のわかる人で良かった。ひどいと怒鳴られますよ」と言う。
私は「別に怒るほどのことじゃないですよ」と言ってはっと思った。そうだ、私たちにはこの件で怒る資格はないんだと。
風呂へ行く途中私は父にそのことを話した。
「自分たちにはこの部屋間違いを怒る資格はないね」と。
父はぽかんとしている。
私は続けて「だって7号線で大型トラックの前に、合図もせず突然飛び出して運ちゃんの大クラクションを誘った。それは我々のミス。しかし、幸い大事故にもならなかった。この一件はその報いでもあるね」と。父は「そうだなあ……」とうなった。
大きく長い目で見れば、宿の従業員に部屋を間違われひどい目にあった不幸。だが一方で、我々には交通事故を起こさずに済んだ幸いがあった。時間は逆転しているけれど、不幸中の幸いがあったわけだ。私はそう思って痛い目にあったのに、何だか嬉しくなった。
温泉は露天こそなかったが、そこそこ広く二段風呂になっていたのが面白かった。また夕食は予想通りおかずなど少な目。しかし、私も父もこのくらいで丁度良いと言い合った。この日も父は飲み食べながらよく語っていた。
もう一つ記しておきたいことがある。
昨日今日、地図と実際が食い違ってがっかりさせられることがしばしばあった。高速の関越道は地図によると東京から新潟までだった。私たちはそこで高速を降りて一般道の7号線を走った。ところが、日本海東北道が既に開通していてそれに乗れば村上まで行くことができたのだ。
また、秋田自動車道も地図と違って能代まで通じていた。もしそれを知って高速を使っていたら、昨日の羽黒山見学、今日の伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡見学も日没ぎりぎりにならなくてすんだだろう。宿だってもっと早く着けたはずだ。しかも日本海東北道はサービスエリアで貰った高速地図にも載っていなかったから、若干腹立ちを覚えた。
しかし、下の道を行くことで良い面もあった。特に今日は八郎潟近くを走る途中(父が運転していたので)、地図を見て県立博物館があることを知った。私はふとあることを思い出してそこに立ち寄ることにした。
あることとは以前東北で弥生時代の水田跡が発掘された際、弥生人の足跡が発見されていたことだ。私はその水田遺跡が秋田県だと記憶していたので、それを博物館で確認しようと思った。
ところが、結果は秋田ではなく青森だった。係りの人からそれを知らされ、なおかつ見たかった縄文弥生の展示室は改築中で見学できなかった。展示されていたのは一階分を占領して菅江真澄(すがえますみ)なる近世紀行家の事跡だった。この展示には(私は菅江真澄なる人物を全く知らなかったからだが)がっかりした。
また、二階では秋田の偉人と題して近代以降の(秋田での)著名人数十人が顔写真と経歴付きで紹介されていた。それにも何だ秋田ってこんなことしか展示するものがないのかと、がっかりした。
ところが、立ち寄ることでいいこともあったから面白い。
まず受付や館内の女性係員がとても美人だった。しかも優しい。かつての日本的美人を彷彿(ほうふつ)とさせた。そのとき館内の見学客は私と父だけだった。菅江真澄のコーナーを見学しているときは、一女性がとても懇切丁寧に説明してくれた。時間が許せばずっと説明を聞きたかったほどだ。
私は「ホントはゆっくり解説を聞きたいのですが、先を急いでいるので」と謝った。
彼女は恐縮していた。
また、水田の足跡の件も問い合わせてくれたし、私が「これから伊勢堂岱(いせどうたい)遺跡に行きます」と言って外へ出たら、以前博物館で作成したらしいパンフレットを持って追っかけてきた。これは伊勢堂岱遺跡が見学時間終了で何の資料も貰えなかったから、とてもラッキーだった。
その後三内丸山遺跡で見たビデオには、初めて三内丸山遺跡の土器などを発見記述した人として菅江真澄(すがえますみ)の名が出てきた。秋田の紀行家菅江真澄の名はこうして私の記憶にしっかりと残されたのである。
こういう立ち寄りは高速を走ったのでは絶対にできない。そう言う意味でホントに良し悪しはどっちに転ぶかわからないもんだと思った。
夜翌日の宿を決めるため父と相談した。私は父に東北の紅葉をぜひ見せたかった。
私が計画したルートは青森で三内丸山遺跡と小牧野遺跡を見学し、十和田ゴールドウェイを使って八甲田山から十和田湖へ抜け、降りたところで大湯(おおゆ)環状列石を見学する――そのような流れだった。
ところが、昨日からかなり寒くなり、ニュースによると蔵王は冠雪で道が通行止めになったという。そこで立ち寄る予定だった酸ヶ湯(すがゆ)温泉(千人風呂が有名)に電話して状況を聞いてみた。すると八甲田も雪で夜間通行止め、なおかつ日中もチェーンかスノータイヤがなくては危険だと言う。
今回の旅で私は万一を考えてチェーンを持参していた。チェーンを巻いて行けば、おそらく八甲田山の冠雪と紅葉を同時に見られる数少ないチャンスだと思った。しかし、もう十年近く車にチェーンを装着したことがない。そのめんどくささが先立った。父は無理して行かなくてもいいぞと言う。
そこで、予定のルートはやめ、八甲田と十和田湖をカットすることにした。その分盛岡まで下ってその近くの温泉に泊まろうと決めた。友人からいい温泉地と聞いていた、網浜温泉に電話してみると、そこも降雪でチェーンが必要だという。仕方なく盛岡から車で30分ほどの所にある「繋(つなぎ)温泉」に決めた。
そろそろ大きな旅館に泊まって豪華な温泉に浸かってみたかった。しかし、大規模旅館は料金が高い。1万で泊まれるなら良しとしようと思い、客室数150はある大規模ホテルに電話した。ガイドブックでは最低1万から数万円までの料金設定になっていた。このシーズンだと最低でも1万数千円は取られそうな気がした。だから、フロンが出ると機先を制して「二人だが、一万で泊まれるか」と聞いた。ちょっと待って欲しいと何やら相談したような時間の後、オッケーと返事があった。こうして翌日の予定と宿が決まった。
10月30日旅に出て三日目。大鰐(おおわに)温泉を出て東北自動車道へ乗ると、1時間ほどで青森に着いた。三内丸山遺跡から小牧野遺跡を見学するともう昼近かった。
再び青森市街地へ戻り海のすぐそばにあるアスパム(観光物産館)に車を停めた。そこで昼食を摂った。アスパム最上階の展望レストランに行ってみたが、値段が高い。諦めて一番下の階にあったラーメン屋でラーメンを食べた。
私はでっかいいりこが入った煮干しラーメン。父は海鮮ラーメンを注文した。ホタテや海老が入った父のラーメンは私の二倍はある大きさだった。それから土産物屋を回り、りんごを田舎へ送ろうと館内を歩き回った。しかし、リンゴ売場は一軒しかなかった。
私は十数年前一人で津軽へやって来たとき、青森駅近くのりんご横町から田舎へりんごを送った。父や母からそのりんごはとてもおいしかったと聞いていた。そこで今回もそこへ行ってみることにした。
駅までは歩いて10分ほどかかった。駅周辺はずいぶん変わっていたが、リンゴ売場がずらりと並んだ横町はあった。父と私はりんごを試食しながら一番うまかった所でりんごを買い、大分の田舎へ送った。それからタクシーで港まで戻った。
これで青森とはお別れ。その後東北道に乗り、南下して大湯環状列石を目指した。
夕方薄暗くなった頃大湯環状列石を見学して再び十和田インターへ戻り東北道を南下した。そして真っ暗になった午後5時頃、盛岡インターに到着、30分ほど走って繋(つなぎ)温泉の巨大ホテルに着いた。ここは温泉でサウナに檜風呂、露天も二つあってかなり豪華である。露天ではホテルの従業員らしい若いあんちゃんと会話を交わしたりした。
そして、翌日の宿を決める。翌日は平泉中尊寺から松島を見学することにした。もう3日間宿で夕食を摂っていた。夜出歩いていないので、明日は夜の仙台市街を歩くことにして、郵政の宿メルパルクSENDAIを予約した。
翌朝露天風呂から眺めた白雪の岩木山は爽快だった。
10月30日、盛岡から東北自動車道へ乗り、平泉で降りて中尊寺、毛越(もうつう)寺を見学。再び東北自動車道に乗り松島を目指した。松島に着いたのは正午前、2時間ほど滞在して五大堂や瑞巌(ずいがん)寺を見学した後すぐ仙台へ移動した。
私は多賀城辺りも見学したかったが諦めることにした。連日暗くなってからの宿入りだったので、父はたまには明るいうちに宿へ着き、のんびり風呂に浸かりたいと言う。そこでこの日は松島からすぐ仙台へ向かった。
高速を30分ほど走るともう仙台だった。インターを降り中心街へ向かう道は三車線。途中右折左折レーンのある交差点は五車線になった。おおーさすが東北の雄仙台だと感心した。
ところが、仙台駅に近づくにつれ、片道三車線は二車線になった。やがて一車線になり、どんどん狭くなる。道もつられてどんどん渋滞する。何じゃこりゃと思った。
メルパルクSENDAIの場所は地図で確認していた。大通りに面しているので左折して入れるよう裏道を行くと一方通行ばかり。かくしてしばらく迷ったけれど、何とか4時半にはメルパルクのビルに到着できた。
ここは温泉ではない。それでも展望大浴場で市内の景色を眺めながらのんびりできた。
夕食は外へ出て定禅(じょうぜん)通りにある「おでんの三吉(みよし)」で舌鼓。さすが評判のおいしさだった。大根などとろっとして上品な味である。食後宵闇の定禅通りを散策。ケヤキ並木は道の中央に立ち並び、そこは遊歩道になっていた。
次に仙台七夕祭りで有名なアーケード街を歩き回った。小一時間も歩いて宿へ戻った。
途中父は今どの辺りを歩いているか全く記憶に留めようとしていないことに気づいた。いまこの町中で父と離れたら、父はタクシーを使えば宿に帰って来られるだろうが、歩いては帰って来れないだろうなと。父にそれをほのめかすと、父は「なあにそのときは人に宿の場所を聞きながら帰る」と言う。その点まだまだぼけていないと思った。
しかし、その夜遅く父は展望風呂に行けず、館内をうろちょろしたそうだ。
私たちの部屋は12階建ての6階にあった。展望風呂は当然12階にある。ところが、エレベーターは2カ所あり、一台は6階から12階専用だが、もう一つは1階から10階専用だった。つまり、1階から6階の部屋にやってきたエレベーターでは展望風呂へ行けないのである。
私は夕方展望風呂へ行くとき、父にそのことを告げ、「風呂へ行くときはこのエレベーターに乗らなきゃダメだよ」と念押ししていた。しかし、父は就寝前展望風呂へ行こうとして1階から10階専用のエレベーターに乗ってわけがわからなくなってしまったのだ。もちろん父は1階へ降り、フロントに尋ねて無事展望風呂へ行った。そして無事帰還できた。だからまだまだ大丈夫(?)だが、夕方私から聞いたことを完全に忘れていたのである。
旅に出てすでに四日目。この間私は宿に着いて父と一緒に風呂へ行くとき、泊まった部屋の「部屋番号は?」としばしば質問した。父はバカにするなと言う感じで部屋番号を答えた。
この夜仙台の繁華街を歩いているとき、私は何となく父が子どものように思えてきた。私は今どの辺りにいるか頭に思い描きつつ歩く。一方父は全く私に頼り切っている。それは昔私が子どもだったころの裏返しであった。子どもの私は鉄道にも乗れず、町を歩けばどこをどう歩いているのか全くわからない。当然父に頼りっきりだった。私もいつか一人でバスや列車に乗り、自力で町なかを歩けるようになったのだ。人は赤ん坊として生まれ子ども時代を経て大人となり、年老いて去る。最後は子どものようになり、赤ん坊となって死に行く。誰かが言っていた通り、父もそろそろ子どもの時期を迎えたのかなと思った。
市内散策から戻ると部屋で翌日の宿を探した。まだ山に登って紅葉を眺めていない。八甲田、蔵王は雪でダメ。福島磐梯山なら東北南部だから大丈夫だろうと思った。そこで磐梯山山腹にある秘湯の宿に電話して聞いてみると、やはり降雪で行きづらいとの返事。結局山の紅葉は諦めて岳(だけ)温泉の共済系旅館にした。父はどうやら今まで経験したことのない大移動と、見学また見学に飽きが来始めているようだ。翌日は午前中仙台市内を見学して福島へ移動、午後は(私の最終目的地でもある)千貫森山に登る予定だった。午後それだけでは時間が余るだろう。そこで飯野町の西二本松に、高村光太郎の妻智恵子の記念館がある。私は既に見学していたけれど、そこに行かないかと言ってみた。父は「もういい」と答えた。それほど多くの観光地を見学しているわけではないが、明日は旅に出て早五日目。父はややみちのく車旅に食傷気味の体であった。
11月1日、午前中は仙台市内の国分寺跡、瑞鳳(ずいほう)殿、青葉城跡、大崎八幡宮を散策。その後すぐに福島へ向かった。福島西インターで降りて飯野町へ向かい、昼過ぎ千貫森山に登った。
飯野町周辺を散策した後、岳(だけ)温泉ヘ移動。宿のヘルシーパルへ到着したのは午後四時過ぎだった。今日も早かった。宿はサウナに露天がありなかなかの温泉。フロントで部屋番号を聞くと102号室。私は何となく笑ってしまった。私のアパートの部屋番号も102だったからだ。いろいろな偶然や重なりがあってこれが最後の偶然かなと思った。
ところが、これが翌朝ちょっとしたハプニングを巻き起こすのだから、人生はなかなか愉快だ。
ここも晩飯はほどほどの量でちょうどよかった。泊まり客は全部で7、8組。みな年輩のじいちゃんばあちゃんばっか。私と父は102の札があるテーブルに座った。父は相変わらず上機嫌でよく食べよく飲んでいた。父と相談して翌日はもうどこにも寄らず帰路に就くことにした。
そして、翌朝いつも通り朝風呂に浸かり、父と朝飯を食べに食堂へ向かう。昨夜と席が変わっていた。テレビを見られるようにしてくれたのか、二人の所はテレビに向かって並んだ形で席が用意されていたのだ。他のじいちゃんばあちゃんたちも早食事中だった。父が先にテーブルに座り、私もその横に座った。やがて私たちが食べ終える頃、熟年夫婦のカップルがやって来た。そして、空いたテーブルの部屋番号を確認している。しかし、自分たちの部屋番号が見つからないようだ。あちこちうろちょろ歩き回っては怪訝(けげん)な顔をしている。私はふいとテーブル上の番号札を見た。そこには何と102ではなく「201」とあった。
私は「あっ!」と叫んで、すぐその人達の所に行き平謝り。私たちがいるべき「102」のテーブルに座って貰った。父は何も言わず、食事後謝りに行った。私は父が座ったとき、部屋番号を確認しておけば良かったと思った。
最後に一句――偶然の終わりは悲笑い秋の旅
(※注…悲笑いとは造語で悲しみを含んだ笑いのこと)(4へ続く……)
Copyright(C) 2003 MIKAGEYUU.All rights reserved.