「過疎地にニート団地創設を」


○ 過疎の地に 団地をつくり ニート呼ぶ それはかつてのサナトリウム


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ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2018年 6月5 日(火)第 178号


 久し振りに狂短歌人生論を一編配信いたします。数年前「六〇歳からの主張」という論文募集に投稿して没となった(^_^;)エッセー風小論文です。
 公表はやめようと思っていましたが、「せっかく書いたから公開しておこう。誰かやってみようと思う人が現れるかもしれない」と思ったとご理解下さい。某大学の部活動だけでなく、軍隊化しつつある日本社会への危機感もありそうです。
 テーマは「ニートを擁護し、引きこもりをどう解決するか」。ちょっと突飛な意見だから入賞しなかったのでしょう(^_^;)。
 なお、投稿したのは2の「過疎の地にニート団地創設を」で、1「ニートを擁護する」はその前段として書いたものです。
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 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 過疎の地に 団地をつくり ニート呼ぶ それはかつてのサナトリウム

 (^_^) ゆとりある人のための10分エッセー (^_^)

 1 【 ニートを擁護する 】

 現在日本の若者をめぐる大きな問題の一つにニートがある。全国に六十万、あるいは百万人とも言われ、働かず、自室に閉じこもる若者が問題視されている。
 このニートに対して一見正当に聞こえる批判がある。いわく「甘えている、親のすねかじりだ、貧しい国でも見に行け、徴兵制にして性根をたたき直せ」等々。

 また、ニート予備軍とも言える小中高の不登校児も減ることなく毎年一万人ほどが卒業し、彼らは成人後もニートとなって閉じこもることが多いようだ。いじめも減らず、子どもの自殺も途切れることがない。社会でも過労死や自殺、自殺行為に似た無差別犯罪が頻発している。私はこれら不適応症状とも言える現象の底に流れるものは同じではないかと考えている。

 今世の中を覆っているのは集団性と競争原理ではないだろうか。命令に従う素直で従順な人間であることが求められている。それは国のリーダーたちが望む国民像でもあるようだ。そして、競争させ、競争に勝ち残ることが求められている。親は我が子が勝ち組に入ることを願っている。

 学校は従順な教師、従順な児童・生徒をつくろうとし、子ども同士を競わせる。クラスで、学年で、班行動で競争させる。先生は全国共通テストで「平均以上になれ」と叱咤激励する。全員・全校が平均以上になることはないというのに。子どもは学校という集団、クラスという集団、グループという集団の中で溺れかけている

 結果、集団に適応できない子をグループから追い出す。弱々しい子、異質な子をいじめる。集団化と競争原理、命令と服従の関係に我慢できなくなった子どもが不登校となる。
 命令と服従の関係は軍隊と同じだ。軍隊に適応できる人間と適応できない人間、どちらがより人間らしいだろうか。私は不登校とは人間らしさを維持するための正しい選択だと思う。

 命令と服従の関係は卒業後の会社なども同じである。パワハラ、セクハラ、二十代後半にしてすでに店長とか部長の肩書きを持っている。彼らは深夜までサービス残業に追いやられ、長の名が付く立場を夢がかなったと思っている。
 そして、劣悪な働きぶりに耐え、勝ち抜いた上司が部下に対して競争を強要する。「弱々しい、情けない」とパワハラする。「もう耐えきれない」と思った若者が閉じこもり、引きこもる。

 ちょっと考えれば、いじめる子どもと不登校児、パワハラの上司とニート、どちらが人間として正しい姿か明らかではないか。私は不登校児もニートも、より人間らしい人間だと思う。彼らは繊細な感受性を持ち、人間らしく生きたいと願うからこそ、軍隊化した学校や社会に背を向けるのだ。「私を傷つきやすい一人の人間として扱って欲しい」と叫んでいるのだと思う。

 かつて子どもが家庭内暴力を起こし、親が苦しんでいるとき、「子どもに変わることを求めるのではなく、親のあなたが変わるべきだ」と言われた。それと同様、不登校児やニートの問題は学校が、会社が、国が、社会が変わるべきだと思う。

 だが、当面の問題としてニートや不登校児は我が家、我が国の困った問題として認知されている。やがて働かないまま、社会とつながりを持たないまま高齢ニートとなれば、社会全体の負担となることは明らかだ。全体が変わるのを待っていても事態は良くならない
 なにより、ニートや不登校児は自分がどれほど人間らしい人間であるか、その思いを持っていない。自分はダメな人間だと思い、自信や誇りを失っているだろう。自分を守るには部屋に閉じこもるしかないと感じているはずだ。

 しかし、閉じこもり続けていても問題は解決しない。やはり外に出る必要がある。「この世は捨てたもんじゃない」と思えること。生き生きと勉強したり、働くことのできる人間になること。そのためには傷ついた心を癒し、回復するための活動、そして場所が必要だと思う。

 それを提供する機関として過疎の町や村が一肌脱ぐというのはどうだろう。現在通信教育のスクーリングとして過疎地の廃校が利用され、好評である。似たもの同士が集まることでコミュニケーションが取れつつある。過疎の町や村がこのような場をどんどん提供して閉じこもりの若者を呼んではどうだろうか。


 2 【 過疎の地にニート団地創設を 】

 かつて結核が不治の病だったころ、日本各地に療養所が開設されていた。それはサナトリウムと呼ばれ、文学の題材ともなった。
 私はいまそれにならって過疎の地にニートリウムをつくることを提起したい。もちろん全国に六十万人はいると推定される閉じこもり・引きこもりの若者のための療養施設だ。

 私が住む大分の片田舎も、全国の過疎地同様人口減に悩み、議会で盛んに議論が交わされている。その様子を見聞きするたび、私はちょっとした異和感を覚える。提起される施策が企業誘致など、《地元のため》という観点で発想されているからだ。それは都市の人々や企業に「私たちは困っています。助けてください」と訴えているかのように見える。

 こう書けば「当たり前だ」と言われるだろう。田舎の人口が減って苦しんでいるゆえの議論であり施策なんだから。
 だが、全国の過疎地が同じ問題を抱え、同じような対策を練り、多くは行き詰まっているように見える。

 発想の転換が必要ではないだろうか。それは我が町村のためだけでなく《外の人のため》という観点だ。「困っている人、悩んでいる人を、我々が助けよう」との発想だ。

 一方に過疎があるなら、他方には過密がある。都市は人口過多によって様々な問題を抱えている。学校に行かない、行けない不登校児。社会に出て働かない、働けないニート。そんな我が子を持て余している親たち。都市には助けを求める人がたくさんいる

 それゆえ、過疎の町や村が彼らに救いの手を差し伸べる。それが自分のためだけでなく、人のため、世のためになる発想ではないだろうか。都市生活に疲れた人々を癒し、復活できるよう、田舎が一肌脱ぐのである。

 その一つとして提起したいのがニートリウム創設だ。ニート療養施設と言っても、数十人を集める程度ではお話にならない。私が思い描くのは思い切ってニート1000人を受け入れる「ニート団地」構想だ。

 大切なことは入所してどんな生活を送るか。
 《今の暮らしを変える必要はない》――これが基本コンセプトとなる。つまり、自宅の一部屋で閉じこもっているなら、その生活を続けていい。自宅の一室が団地の一室に変わるだけだ。

 この条件ならニートはやって来る。何より我が子のニート状態に困り果てている親たちを救うことになる。全国で六十万人の需要がある。ニートは国の問題でもあるから、団地建設に当たって国も支援する。

 ただし、入所ニートに一つだけやってもらうことがある。それは原則《自給自足生活》を送ってもらうことだ。自分が食べる米や野菜はつくってもらう。牛・豚・鶏の世話をやってもらう。海に近ければ、漁業を手伝ってもらう。

 最初からこんなことを課せば、さすがに人は集まらない。だから、やりたくなかったら、やらなくていい――これも基本コンセプトだ。その場合家賃や生活費はやや高くなる。だが、自給自足生活を心がけるなら家賃・食費は格安とする。

 療養生活の最大目的はニートに生きる力とたくましさを取り戻してもらうことだ。人間関係に疲れ、傷ついた若者に、自然や田舎の人たちとの交流によって生きる力をよみがえらせてもらうのである。そして、病癒えたなら都市に戻るも良し、田舎にとどまるも良しとする。

 それでは過疎地にとって一時的な人口増でしかないと言われるかもしれない。
 だが、田舎で十年暮らすうち、その地にとどまって働こうと思う可能性がある。農林漁業に適性を見いだすかもしれない。また、年老いて困窮したり、本格移住を考えたとき、自給自足生活はきっと役に立つ。ニート団地創設はニートと家族を救い、過疎の地に劇的変化をもたらしてくれると私は思う。


 ○ 過疎の地に 団地をつくり ニート呼ぶ それはかつてのサナトリウム


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 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:空海論は続きますが、こちらはまたお休みに入ります(^_^;)。ご了承お願いいたします。m(_ _)m


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