「駆け込み退職」その2


○ 教師とは単なるひとりの労働者? 子どもを導く聖職者?



|本文エッセー | 狂歌ジンセー論トップ | HPトップ|


  MYCM:御影祐の最新小説(弘法大師空海の少年期・青年期を描いた) 『空海マオの青春』
    2013年2月メルマガ配信終了 4月より『空海マオの青春』論文編の開始!
   「一太郎」版に続き、PDF電子書籍ファイルも完成
   メルマガ登録・電子書籍サンプルなど詳細はこちらへ→→→ 『空海マオの青春』


ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」        2013年 2月 27日(水)第 151号


 2月は「逃げる」と言いますが、正にあっちゅう間に過ぎ去りました(^.^)。
 ここ数日真冬並みの寒波襲来で北国の方は大変ですね。こちらも寒さがぶり返して最低気温がずっと氷点下でした。それでも晴れた日の日差しは強く、春が近づきつつあると感じます(^_^)。「光の春」という言葉もあるとか。俳句の季語かと思ったらロシア語だそうです。

 さて、今号は体罰自殺事件について書く予定でした。しかし、教師の駆け込み退職問題はその後も大きく取り上げられ、テレビ識者たちの《ありがた〜いお言葉》もたくさん聞こえてきました。それがまた私の執筆意欲をかき立てます(^_^;)。
 また、前メルマガで書いた内容に一部間違いがあったので、今回も駆け込み退職について書くことにしました。
 テーマは「教師とは労働者か、それとも聖職者なのか」です。
 長くなったので二つに分けました……が、単独でもまだ長くて恐縮です(^_^;)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 (^_^)本日の狂短歌(^_^)

 ○ 教師とは単なるひとりの労働者? 子どもを導く聖職者?

 (^O^) ゆとりある人のための10分エッセー (^O^)

 【 駆け込み退職について(続)】

 最初に前メルマガの間違いについて触れます。
 退職金減額が2月1日実施の場合、「3月末まで続けるより1月末に駆け込み退職した方が150万多い。2月3月の給料分を考えると、得しても約70万の違い――とテレビでは言われている。けれども、1月末退職の人だって2月3月の給料分80万を失う犠牲を払っている」と書きました。
 この後半部は駆け込み退職者を擁護するつもりの表現でした。しかし、やめる以上その後の給料がもらえないのは当たり前のことだから、2、3月の給料込みで考えるのはおかしい。やはり1月末退職なら150万多く、3月末だと150万少ないのだ――と指摘を受けました。確かにその通りです。
 よって多くのコメンテーターが「損得を勘定すると70万の違い」と言っていたのも実はおかしいようです。《有識者》の中には「駆け込み退職は許せない。たかが70万で……」などと、庶民感覚からかけ離れたお大尽ぶりを見せる方もいらしてあきれてしまいました。

 その後報道などでわかったことをいくつか書きます。
 論評で取り上げられていたのは主として学校の先生ですが、警察官もかなりの人数が駆け込み退職したようです。また、退職金減額規定が条例化され、1月末や2月末で実施される県と、結局条例化されることなく推移している県もあって全体としてはそちらの方が多数派。減額されない県はこのまま3月末を迎えるのでしょうか。
 となると、ある県では退職金が減額され、駆け込み退職で現場が混乱した。しかし、隣の県では4月1日実施なので問題はなかった――など不平等な事態が起こることになります。それは仕方ないことなのでしょうか。

 私は神奈川県の高校教員だったので、友人知人は退職・現役の先生が多数です。神奈川では退職金減額が3月1日実施と決まりました。友人も何人か巻き込まれています。結果2月末でやめると決断した人、3月末まで続ける人に分かれたようです。

 しかし、もっと悲惨なのは残り1年とか2年の人たちかもしれません。来年3月末の定年退職だと、給料・退職金を含めて数百万の減額になるとか。ここでやめれば、3月末の退職金減額があっても、現在給に基づく退職金をもらえる。しかし、定年までやれば、残り1年は「ただ働きみたいなもの」という状況です。

 それでもやめない――のは家のローンがあるから、子どもの教育費があるからです。続ければまだ数百万が入る。きょうび一ヶ月30万、1年ボーナスを含めて500万近くをもらえる仕事はたやすく見つかりません。全うすれば非常勤として退職後も働ける道が残される。だから、やめないし、やめられない(--;)……そんな状況のようです。

 さて、ここから今号の本題――学校の先生は労働者か聖職者か。

 駆け込み退職が問題視されるのは「学校の先生は単なる労働者か、それとも聖職者か」の見方が関係しているからです。
 聖職者とまで言わなくとも「彼らは子どもたちを導く師なのであり、《武士は食わねど高楊枝》の言葉もある。金のために動くのはさもしい」といった心情が発言者の根底にあるようです。
 ちまたの意見も多くの人が「やめたくなる気持ちはわかるけど……」と「……」が付くのも、内心同様の気持ちの表れでしょう。もちろん「労働者として150万も減らされたら、やめるのは当然でしょ」の意見も多々ありました。

 私は「学校の先生は単なる労働者か。それとも子どもを導く聖職者か」と問われるなら、どちらも否であり、どちらもしかりと言えるかなと感じています。

 生きるため、食を得るために働くのが労働者であるなら、教師も一般企業サラリーマンとなんら変わりありません。
 もしも聖職者の代表としてキリスト教の牧師さんをイメージするなら(「空海」を書いた筆者としてここで仏教僧を出せないのが辛いところ(^.^)、学校の先生はとても牧師さんと同じとは思えません。

 ならば、単なる一労働者かと言うと……それもまた違うような気がします。

 子どもを教え導き、子どもに「素晴らしい先生」と尊敬されたり、「私もあのような人になりたい、学校の先生になりたい」と思わせる点で、単なる労働者とは言えないような気がするのです。
 もちろん生徒に軽蔑され「困った先生」と思わせる人もいます(いました^_^;)。  しかし、反面教師という言葉もあります。体罰先生は困るけれど、学校における「ちょっと困った先生」でさえ、子どもたちに社会を学ばせる意味で存在価値がある、と私は考えていました。

 そんなわけで教師聖職者論にはくみしないけれど、単なる労働者とも思えないのです。

 強いて言うなら学校の先生には「人格者」としての人間性が期待されていると言えるでしょうか。警察官も同じではないかと思います。
 教師と警察官の犯罪――特に先生の性的犯罪、おまわりさんの酒酔い・酒気帯び運転――が大きく取り上げられるのは「普通の職業に就くフツーの人間」とは思われていないからでしょう。

 そして、この違いがどこから来るかと考えてみると、教師や警察官は《お金を得ることが労働の目的、動機になっていない》点にあるのではないでしょうか。「なっていない」はさすがに言い過ぎで、もちろんお金を得ることが最低限の動機、目的ながら「それだけではないでしょう」といった感じです。

 たとえば、刑事ドラマで有名ですが、ある事件を担当した刑事はしばしば朝から晩まで歩き続け、犯人を推理し、追求し続けます。犯罪が深夜、早朝に起これば現場に駆けつけます。それはしばしば家族、子どもたちを犠牲にしているほどです。深夜・早朝の急患に対して駆けつける救急車、処置をする医師も同じでしょう。
 ただ、お金のことで言うと、彼らには時間外手当が出ると思います(^_^;)。

 しかし、教師に限って言うと、時間外手当は一切出ません。金八先生はしばしば夜に呼び出されて生徒のために奮闘しました。あれを見た人は「何か時間外手当が出ているのだろう」と思われたかもしれません。しかし、手当は全くありません。

 私が在職時、夜間に生徒や保護者から呼び出されることはさすがにありませんでした。
 しかし、問題児の保護者と夜の電話で1時間とか、2時間会話したことはあります。生徒の問題行動が続くと、電話連絡をしなければならないからです。 しかし、日中は働いているので家に電話しても誰も出ない。そこで夜間電話すると、「我が子のことから家庭問題まで相談を受ける」ことになるのです。
 私はこちらからかけて話があまりに長引いたとき、その電話代を「学校で持ってくれないか」と要求したことがあります(^.^)。
 校長の返答は一言「それは無理です」だけでした(教職特別手当がそれに当たるとの見方もあるようです)。

 今は民間サラリーマンも《サービス残業》などと言われて状況は教師公務員と変わらないかもしれません。ただ、サービス残業をしても「景気が上向いて給料が上がれば」とか「いつか独立して大きく稼ぐ」などと思って耐えていることが多いでしょう。民間サラリーマンが働く動機、目的の大きな一つとして「お金を得ること。より多く得ること」である点は間違いないと思います。

 ところが、教師が一生懸命働く動機、目的にお金は一切関係ありません。なにしろ今書いたように、いくら一生懸命働いたとしても時間外手当どころか、何の報酬もないからです。
 指導するクラブが県で1位になったとしても、全国大会に出場しても、指導教員にご褒美はないし、給料も上がりません(-.-)。
 あるいは、ある先生は8時半の就業直前に出勤、放課後部活動を見ることもなく5時になったらさっと帰る。別の先生は朝練で午前6時半に出勤して放課後は生徒の補習を見てやり、5時以降も部活動で生徒を指導して帰宅が午後8時になる。休日も試合や練習など部活動で出勤している……。この二人が同年齢であれば、給料は全く同額です。後者にプラスαが追加されることはないのです。

 では、教員にとってプラスαとはなんなのでしょう。ご褒美もなく、成果が上がったとしても給料アップがない。なのに働き続ける意味とは

 それはひとえに《精神的な喜び》と言うしかありません。自分の活動、労働がお金にはならない。しかし、自分はお金以上に価値あるものを生みだし、喜びを得ている――私にはそれが教師として働く動機、目的になっているような気がします。
 それは子どもとつながりを持つから得られるのであり、教師職の魅力、働いての楽しさや喜びもそこに尽きます。給料日にひと月の労働報酬を得る喜び――はもちろんあるけれど、それ以上の精神的な喜びが子どもとの関わりでもたらされるのです。

 たとえば、自分が指導した部活の生徒が強くなる、上達する。生徒が「何々を教えて欲しい」とやって来る。イマイチ出来の良くない子ながら放課後勉強を見てやる。私が担当した国語科だとそれが論文指導だったりします。
 結果、その子が狙った大学に合格すると「先生のおかげです」と顔一杯に笑みを見せてやって来る。「良かったなあ(^o^)」とこちらも笑顔が出る。

 部活動にしても個別の補習にしてもかなりの部分はボランティアであり、余計な仕事です。「忙しいから」と断ることだってできます。しかし、私の知る限り、生徒が「教えてほしい」と言ってきたとき、断っている先生をまず見たことがありません。

 では、そのボランティア活動としての部活動や補習などに報いはあるか。論文添削などは学校内で終わらず、しばしば持ち帰ってやりました。それは個人で勝手にやっている作業と見なされるのでしょう、手当など全くありませんでした。
 また(私は少なかったけれど)、運動系の部活動では土日のほとんどが練習、対外試合にあてられます。顧問は当然休日出勤です。その手当は(私の在職当時)1日2000円ほどでした。月曜から金曜まで毎日5時以降2時間の部活動指導をしても、月の手当は1000円でした(今はもっと多くなっているかもしれません)。

 では「報いはないのか」と聞かれたなら、多くの先生は「報いは子どもたちの笑顔だ」とか、「感謝の言葉だ」と答えると思います。
 授業がうまくいったときなど生徒から感嘆の声が挙がることがある。そして、自分の指導や助言によって子どもたちの生き生きとした姿を見られる……。
 こうしたことがあるからこそ教育職はやりがいがある、と私は感じていました(ではなぜ定年まで続けなかったのか。そのわけはまた別の機会に書きたいと思います)。

 もちろんそれゆえの悩み、苦しさもそこから生まれます。子どもとうまくいかなかった最初の頃、私は何度も教職をやめようと思ったことがあります。「いくら一生懸命働いても、給料は安いし、何の報いもない」と言って去った同僚も知っています。

 また、多くの子どもとは学校だけの関係で終わります。しかし、卒業後も手紙やメールのやりとりをしたり、(私は数少ないけれど)クラス会や結婚式に呼ばれたりして「つながり」を感じさせてくれます。
 久しぶりに再会すると、在学中はどうしようもない生徒だった子がいっぱしの人間となって働いていたり、家族をつくっていたりする。そして「あのとき先生に言われた一言で自分は変われた」などと言う。
 当時なんと言ったか、こちらは忘れていることが多い(^_^;)。「こんなこと言われた」と聞いて「そうだっけ?」と応じたり、内心「大した言葉じゃなかったがなあ」と思う。
 それでも卒業生からそのように言われることは嬉しいし、自分がその子の役に立ったと実感できる……つくづく教師職は「サラリーマンと同じ意味での労働者ではないなあ」と感じます(^_^)。

 そこで今回の駆け込み退職騒動です。友人の話でもう一つわかったことがあります。
 公務員の定年退職は3月末だが、1月末、2月末に駆け込み退職しても《自己都合退職》にはならないと。つまり、中途退職ではなく名目上は「定年退職」だというのです。

 妙な話だなと思って詳しく聞いたら、一般企業の定年退職は満60歳を迎えたその日が正に定年退職となる。だから年度替わりとかは全く関係なく、5月25日だろうが、10月8日だろうが、その日で仕事は終わり。その日までの給料、退職金が払われて会社との関係は切れる。翌日には(必要なら)新しい人がその仕事に就く。
 ところが、公務員にそれを適用すると、その人がそれまで行っていた仕事の代替者がそう簡単には見つからない。中途採用はとても難しいし、学校では担任をやっていた人が学期途中突然いなくなると、現場に重い負担となる。だから、誕生日とは関係なく年度末での定年退職としている……とのこと。

 この件は今回初めて知りました。となると、これから言えることがあります。
 つまり、今年3月に定年退職を迎える人のうち、8割9割の人は昨年中すでに定年退職を迎えているということです。本来ならその月その日の退職規定によって退職金が支払われていなければなりません。「だったら、新しい規定は来年度4月1日実施として3月末にはそれまでの規定で退職金が支払われるべきではないか」と言いたくなります。労働者と見なすなら、そう言えるのではないでしょうか。

 それに前メルマガにも書いたとおり、月々の給料と退職金の違いを考えると、「退職金減額は契約違反ではないか」とも思えます。
 公務員にはスト権がなく、団体交渉も認められていません。いわゆる賃上げを目指す「春闘」が公務員にはできません。なので、人事院が民間の給料を参考に公務員の給料を上げたり下げたりしているのです。
 その決定までに日がかかるので、それが適用されるのは12月の年末調整になります。そして、適用は4月にさかのぼって実施されました。かつて好景気の頃給料はよくアップして12月にどんともらえました。しかし、不況となってからは良くて現状維持、そして、今回のダウンとなりました。問題はダウンとなったとき、どの段階で実施するかです。

 これを普通の労働で考えるなら、アルバイトにせよ非正規、正規就労にせよ、私たちはどこかで働こうと思うとき、まず条件を見るはずです。たとえば「月の給料20万、一日の賃金8000円、1時間800円の時給」などと確認してから働き始めます。
 もしも1週間、1ヶ月働いた後、雇い主から「今月は(物が売れなかったから)給料は15万にする、一日6000円にする、1時間700円にする」と言われたらどうでしょう。それは契約違反であり、不当労働行為として厳しく処断されます。
 そんなとき会社の経営者はどうするかと言うと、銀行からお金を借りてでも、まずは社員の給料を払うことを最優先するのです。

 よって、今回の給料ダウン・退職金減額措置とは、昨年4月から9ヶ月間働いた後で「給料を減らす」と言っているのと同じことです。なおかつ「退職金も減らす」と言われたのです。民間なら不当労働行為として訴えられ、裁判になってもおかしくありません。

 ところが、今も書いたように公務員が他のサラリーマンと違うところは、ずっと給料が4月にさかのぼって上げられ続けたことです。
 正直な話、給料が上がり、なおかつ退職金も上がった俸給・号給に則って支給されるのであれば、誰もそれを契約違反とは言わないでしょう。たくさんもらえるのですから。《下がる》場合に問題が生じるのです。
 その結果、給料やそれに付随して退職金が下がるのであれば、「だったら、私はあなたのところで働きません」と言える権利が生じるはずです。

 考えてみてください。労働者がある会社で働こうと思ったとき、会社側から「今はこの金額ですが、来月の給料は10パーセント下がっている可能性があります」と言われたら、一体誰がそこで働こうと思うでしょう。少なくとも1年間はその金額をもらい続けることができる――とわかってようやく働き始めるのです。
 あるいは、こういう場合もあり得ます。「1年後には1年間働いてくれた褒美としてボーナスが出ます。また、そこでやめる場合でも1年分の退職金があります。しかし、計算の元となる基本給は10パーセント下がっている可能性があります」と。
 この場合、働くか別の会社を探すかは二つに分かれるでしょう。たとえば、Aさんは「ボーナス、退職金が減らされるのだったら、ここでは働けない」と他の働き口を探し、Bさんは「それくらいならここで働こう」と思う。いずれにせよ、この段階で《働くか、あるいは、やめるか》の個人の自由、決断が下される機会があるのです。

 今回退職金減額は減額措置と損か得かの観点、そして(人格者であるはずの?)教員や警察官の駆け込み退職がクローズアップされています。
 しかし、労働者として考えるなら、これは「給料月額とそれに基づく退職金の金額を見て(知って)そこで働き続けるか、それともやめるか」という個人の選択、自由の問題でもあるのです。
 私たちには労働者として「どこで働くか、ずっと働き続けるか、いやならやめるか」の自由が保証されています。近現代になって獲得された素晴らしい自由です。ところが、今回の退職金減額問題ではこの自由が奪われる結果になっているのです。

 多くの教員(警察官、その他公務員の方々)は言うと思います。「月の給料が減らされるのは仕方ない」と。上がるときには4月にさかのぼる恩恵を受け続けたのだから、下がったとしてもそれを受けざるを得ないでしょう。それがいやなら、その時点でやめるだけです。

 しかし、30数年働き続けた報酬としての退職金まで、昨年の4月にさかのぼって実施されてはたまりません。それは金額の問題だけでなく、《働き続けるか退職するか》の決断を下す自由、権利が全く発揮されないからです。「それならやめます」と言えないまま、有無を言わさず「受け入れろ」と言われるようなものです。それって労働契約違反であり、不当労働行為ではないでしょうか。

 うわさによると駆け込み退職が全く出なかった東京都では、給料・退職金減額とも全て昨年4月にさかのぼって実施されたとか。それでは駆け込み退職の出ようがありません。そして、最も強引にして労働基本権を無視した処置と言わざるを得ません。
 よって、退職金減額措置の実施を「2月1日、3月1日実施」とした県は東京都に比べれば、まだ良心的です。ある意味労働者としての基本的権利を保障したと言えるからです。

 テレビ識者は「4月1日実施とすればこの混乱は起きなかった」と言って各県担当者を批判しました。私も違う意味でそれに賛成です(この意味は次号に)。
 しかし、退職金減額実施を昨年4月にさかのぼらなかったことは「労働者の選択の自由――それでも続けるかやめるか」をぎりぎり保証してくれたとも言えるでしょう。結果、1月末、2月末に退職すれば、前年度の号給に則って退職金が支給されることになり、150万、100万の違いとなったわけです。

 もちろん最良は来年度4月1日の実施です。最悪は東京都のように何の配慮もなく、昨年4月にさかのぼって実施した自治体です。そして、悪いながらもぎりぎり良心的だったのが2月1日、3月1日実施の県でしょうか。これによって「続けるか、そこでやめるか」の決断・自由が保障されたからです。

 そうなれば、後は個人の問題となります。「給料・退職金が下がっても働き続けるか、あるいはここでやめるか」――その決断を各自が下した。それが今回の駆け込み退職の真相ではないでしょうか。


 ○ 退職金 減額措置の決定は 働く権利、自由の阻害


=================================
 最後まで読んでいただきありがとうございました。

後記:次号は明後日3月号として発行します(^_^;)。
 ところで、私の実家は九州大分県の九重(ここのえ)町にあります。過疎の地ながら、知る人ぞ知る九重(くじゅう)九湯(きゅうとう)の著名温泉地です。それが先日全国ニュースで大きく取り上げられたのでびっくりしました。実はあのバス事故が起こったところは私の実家から歩いて30分ほどのところなのです。テレビを見て田舎っぷりがよくわかったことと思います(^.^)。「死者が出なくて良かったなあ」とこちらでは引き続き話題になっています。(御影祐)



次 へ


ページトップ





狂歌今日行くジンセー論 トップ

HPトップ



Copyright(C) 2013 MIKAGEYUU.All rights reserved.