○ 3歳で早くも始まる子の冒険見守らないと気づかないまま
ゆうさんごちゃまぜHP「狂歌教育人生論」 2005年 6月24日(金) 第56号
(^_^)今週の狂短歌(^_^)
○ 3歳で早くも始まる子の冒険 見守らないと気づかないまま
今回も前号に続いて子どもを見守ることについて述べたいと思います。
私の実家は大分県玖珠(くす)郡九重(ここのえ)町にあります。
ここは「九重九湯(くじゅうきゅうとう)」と呼ばれるほど温泉が豊富なところです。
打たせ湯が爽快な筋湯(すじゆ)温泉、清流そばの断崖にわき出る壁湯(かべゆ)温泉、皮膚病に効く猛烈冷泉の「寒(かん)の地獄」などが有名です(田舎のコマーシャルですみません(^_^)。
私の実家はその壁湯温泉近くにあります。
また、管理人がいる正規の温泉場だけでなく、100円から200円の金を入り口の箱に入れるだけの共同浴場もあります(つまり各自の良心しだい(^_^)。
以下のお話しはそんな共同浴場の一つで見聞きした親子の一コマです。―以下「である」体で―
そこは直径数メートルの大きな丸風呂(中間を簡単な板壁で分けて男女風呂としている)と、小さな水風呂のある露天の温泉である。湯はちょっと熱めだが、水風呂がとても気持ちよく、私はよく入りに行った。
ある夏の日のことだった。夕方行ってみると誰も入っていない。こりゃあ貸し切り状態でいいやと、私はのんびり景色を眺めながら浸かった。
その後中年男性と二十代の男性、それに3、4歳の男の子が入ってきた。男の子は若い男性の息子のようだ。
私たちは「こんにちは」と挨拶を交わした。
しばらくして私が水風呂に浸かっていると、男の子が近寄ってきた。
「入りたいの?」と聞くと「うん」とうなずく。
水風呂は直径一メートルほどの円形。地面から数十センチの高さでセメントの枠がある。大人二人だとちと苦しいが、相手が幼児なら充分に広い。
その子は入るのはなんとか自力でできた。しかし、出るのはまだ無理である。そこで出るときは私が抱きかかえて出してやった。
この間その子の父も親戚らしい男性も、ほとんどその子の世話をしない。私は子どもが嫌いではないので、いろいろとその子の相手をしてやった(^_^)。
そのうち男の子は水風呂が気に入ったのか、一人遊びにふけってなかなか出てこない。
父親が心配したようで、大風呂から息子の名を呼んで「出なさい」と声をかけた。ところが、息子は出てこない。父親は何度か「出なさい」を繰り返した。が、やはりだめである。
そのうち若い父は「冷たいジュース飲めないぞ」とか「スイカ食べなくていいのか」などと、甘い言葉や交換条件を出し始めた。よくあるパターンである(^_^)。しかし、子はそれでも言うことを聞かない。
このとき私が一つ感じたことは、父親がこちらの湯船から言葉で言うばかりで、ちっとも子に近づこうとしなかったことだ。私なら水風呂に入って言うがなと思った。
しかし、この父親はなかなか忍耐強い人で、切れて息子を叱りつけることはなかった。
ただ、よく見ることのできない父親であった(^_^)。
と言うのは、息子を見ていれば、すでに彼が水風呂から出ようとしていることに気づいただろう。
男の子は出ろ出ろという父の言葉と交換条件の魅力に負けたか、水風呂の端まで行って出ようとし始めたのである。しかし、水風呂の縁が高いので、自力で出ることができない。
彼は困った素振りを見せている。ところが、父は息子の様子を見ずに、ただ出ろ出ろと言うばかりであった。
さすがに私が「自力じゃまだ出れないんですよ」と言ってその子を抱えあげて出してやった。
なるほど、しっかり見つめていないと、我が子の(ちょっとした)危機が見えないままだと思った(^_^)。
それから、もう一つ面白かったのは、その子が最後の方では、水風呂から、自力で出ることに挑戦したことである。あるいは、見知らぬ人から抱っこされて水風呂から出た――そのことが幼心(おさなごころ)にも、くやしかったのだろうか。彼は一人で水風呂から出ることに挑戦し始めたのである。これも面白かった。
まず彼は水風呂の縁の上に登った。そしてうんちスタイルで半立ちとなった。その格好で飛び降りるつもりのようだ。
縁の高さは数十センチ。だが、彼にとっては身体の半分の高さである。当然こわかっただろう。
縁に上がったはいいが、すぐに飛び降りることができず、身体を前後に揺らして均衡を取っている。かなり危(あや)うい体勢である。
私は大風呂の中から彼の様子を見つめていた。父親らは雑談に夢中で、息子が水風呂の縁に立ったことに気づいていない。
水風呂の外はコンクリの地面である。縁の上でゆらゆらしている男の子が後ろに倒れるなら、そこは水面があるからけがはしない。しかし、そのまま前のめりに落ちたらけがをするだろう。あるいは、飛び降りることに失敗すれば、顔や身体をコンクリにぶつけるかもしれない。3歳児としてはかなり危険な試みに思われた。
私はどうしようかと思った。これは彼にとって一つの冒険である。彼は自力で水風呂から出る冒険を開始したのである。
私はそれを危険だとして(父親に知らせて)やめさせることができる。だが、そのまま見つめてその冒険をやり遂げるさせることもできる。
もし自分が彼の父親だったらどうするだろう、と考えて私は後者を選ぶことにした。男の子は失敗するかもしれない。だが、成功すればまた一つ成長するだろう。
そこで私は水風呂近くに移動した。彼が危ないときは、大風呂の中からすぐに飛び出せる位置を確保してなおその子の様子を見つめた。もちろん男の子は私が近づいたことなど気づきもしない。
彼はひたすら地面を見つめ、身体を揺らして必死にがんばっている。飛び降りるか、やめるか。だがやめると言っても、もはや後ろに倒れ込むのも難しい。前に進むしかない。飛び降りよう。でも、怖い……。
私には彼の内心の葛藤(かっとう)が見えるような気がした(^.^)。
時間にして三十秒くらい、男の子はなお縁の上でゆらゆらしていた。なかなか決心がつかないようだった。そうして最後に「一大決心」をもって縁の上から飛び降りた。身体全体に弾みをつけてぽんといった感じで彼は飛んだ。
私は転ばないよう手を差し出した。だが、それは必要なかった。
彼は両足で着地してややぐらついたものの、手をつくことなく無事地面に立ったのである(^o^)。
私は彼に近づいて「よくやったね!」と声をかけた。
私のその声で、ようやく父親らは子が水風呂から飛び降りたことに気づいたようだ。
つくづく思うことは、親がぼうっとしていると、子どもの危機に気づかないままである。あるいは、子が様々な冒険に乗りだし、失敗したり、成功したことにも気づかないままである。
雑談を交わしながらも、親として我が子の様子をちらちら見ることは可能ではないかと私は思う。
ただし、これはあの父親を責めているわけではない。なぜなら、人の子はいつだってこうして成長するものだからだ。
特に男の子にとって、危険を伴う冒険ごとは魅力的であり、必要であり、挑戦すべきものだと思う。
あの若い父親は我が子の様子に気づかないままだった。しかし、彼が子の様子に無関心だったから、子どもは冒険を成就できたとも言える。
もし母親がそばにいたら、「何々ちゃん、危ない! やめなさい」と叫んで、すぐに近づいて抱きかかえただろう。この場合は、母親が我が子の冒険の機会を奪い、それをやり遂げる喜びと成長の邪魔をしたことになる。だが、これもまた母親ならではであり、母親とはいつでもそうしたものであろう。やがて子は母の知らないところで、小さな冒険に乗り出すのだから。
もし親が我が子の冒険に気づいたときは、失敗したときにはやさしく迎え入れ、成功したときには大いに賞賛する。それが大切ではないかと私は思う(^_^)。
子どもに対して無関心はいけないし、過干渉もいけない、とよく言われる。だが、時には知らんぷりして見捨て(その結果子の自立を誘い)、時には強く激しく関わる(ああ親は自分に関心があるんだと感じる) ことが必要ではないだろうか。そして、そのどちらで行くかは当人が直感で感じとるものだろうなと思う。
○ 冒険と子どもの危機は紙一重 送り出しまた迎え入れる親
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最後まで読んでいただきありがとうございました。
後記:また十代半ばの少年犯罪の連続です。一人は隣の教室に手製の爆薬を投げ込む。次いで父母を殺しガス爆発を起こし、温泉に行く。最後の男の子は兄弟げんかの末、兄を刺し殺しました。憎しみがそこまで深まっていることに驚きます。どこかでボタンの掛け違えがあったのだろうな、それを正す機会がなかったのだろうか、と残念でなりません。(御影祐)
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