『般若心経』講話――全体を一画面にせず、まとめ・結論をつくらかった理由  御影祐

 今も書いたように、もしもあなたが一文字一文字現れる各ページにいらつき、「早く結論を知りたい」と思って途中は読むのを省略したり、立ち止まることなく次頁→次頁とクリックして[まとめ]に到着したなら、結論がないと知ってがっかりされたことと思います。ごめんなさい。m(_ _)m
 しかし、その読み方は悲しい読書法です。ほとんど意味のない読書と言ってもいいほどです。これからそのわけを書きます。なぜ「まとめ」をつくらなかったか。なぜ全体を短く区切り、なおかつ一文字一文字あらわれるような形式にしたか、その理由でもあります(ちょっと長いです)。

 今や短文ツイッター全盛の世の中です。多くの人から長文を読む力が失われつつあります。感想は「いいね↑」・「かわいい〜」で終わりの世の中です。いじめるときも「うざい。死ね」です。どこかいいか、どこがかわいいか、どこがうざいか、書かれません。

 もしも本稿全体が一画面におさまって(最後に結論を書いて)いたら、多くの人は(結構長いから)全体をさあっと読み、最後の結論をやや念入りに読んで、「なるほどね」とつぶやいて……それで終わりではないでしょうか。
 途中で興味の持てそうなところがあったり、疑問・反論があったとしても、とにかく「一度さあっと読んで、結論を確認する」と、もう一度最初から読み直すことはしないと思います。二度読むなんて、みんなヒマじゃありませんからね。

 ただ、ブログを開設しており、「これはなかなか面白い文章だ。いいこと言っている」と思われたなら、結論の部分とか、気に入ったところをコピー&ペーストして「こんなのあったよ」と紹介されるかもしれません(本稿には結論がないから、どこかある一頁を使うかもしれません)。
 私の文章を他の人に紹介してくださるのはとても嬉しいことながら、それは作者である私にとって、とても残酷な紹介方法だと言わざるを得ません(著作権の問題ではありません)。

 私は「全体をさあっと読んで結論を確認したらそれで終わり」という読み方をしてほしくなかったので、小さく区切り、なおかつ一文字一文字現れるような形式にしました。ある固まりは「前に戻ってもう一度読める」ようにもしました。最初から少しずつ読み、立ち止まって二度三度と読み直し、疑問点はそこで考え、語句の意味がわからなかったら、その都度ネット辞典・事典をひもとき、じっくり読んで「なるほど面白い。いいこと書いているじゃないか」とか、「自分ならこうは考えない。これは言いすぎだ」などとつぶやきながら読んでほしかったのです。そのため、全体を一画面に入れませんでした。
 そして、この読み方ができていれば結論は不要だから、「まとめ」を作成しなかったのです。

 多くの人が「全体をさあっと読んで結論を確認したらそれで終わり」という読み方をするのは読者のせいではありません。私は高校の国語教師だったからよくわかります。その読み方は小中高と12年間に渡る国語(現代文)授業で教わった読書法であり、人の話の聞き方です。

 ただし、国語の先生の名誉のために書くと、この読書法、厳密に言うと授業の読み方とは違います。
 授業では「まずさあっと読んで、全体を知ろう。次に語句を調べたり、難しい部分の意味を考えて読み、それらを確認できたら、最後にもう一度味わいながら読もう」という読み方です。
 これ「三読法」と言われ、国語授業の模範形態として文科省のお墨付きもあります。三読法が学校卒業後もしっかり実践されるなら、いろいろな文章を充分理解できるし、読む意味もあります。

 ところが、多くの人は学校を離れた後、新聞記事や週刊誌、雑誌、エッセー、論文・小説など文章を三度読むことはまずありません。よくて二度でしょう。しかも、一度の場合でも文章が長ければ途中を省略したり、難語句の意味も確認しないまま、何はともあれまずさあっと読んで……そして、それで終わりです。一度目は「さあっと読む」訓練しかしていないからです。
 その後もう一度読もうと思っても、本棚に置かれるとそのままです。結局、一度しか読まない。これでは文章をしっかり理解することはとても難しくなります。一度だけいいかげんに読んで、終わっているからです。
 三読法とはかくも実社会で役に立たない読書法なのに、ずっと何の反省もなく、学校で行われてきました。

 私は一度読むだけで、充分理解できる読み方を授業でやりました。それが本稿で示した「各部を少しずつ味わい考えながら読む」読書法です。簡単なところはすぐ次に移るけれど、難しいところとか気にいったところは二度、三度読む。疑問・反論が芽生えたら、その後筆者は答えているだろうかと考えつつ読む。そうして、最後まで進む。
 この読み方は《一読総合法》と言います。一度読んだだけで、その文章をしっかり理解し、味わおうという読書法です。本稿ではそれをさらに極端にするため、1頁をさっと読むことさえできない、一文字一文字あらわれる形にしたわけです。

 また、多くの授業で「この文章の結論は何か。作者は何を言いたいか。それをわかろう」と言われて教材が読まれます。この読み方は論文調の文章にはそこそこ意味がありますが、小説や詩に対しても適用されます。国語の先生は何を読んでも「作者は何を言いたいか。作品のテーマは何か考えよう」と質問します(これも文科省のご指導による授業です)。

 しかし、作者が何を言いたいか。そんなことはどうでもいいのです。結論を知る――それもどうでもいいことです。小説や詩の作者が目の前にいて「あなたの文章は何を言いたいのですか。五十字以内にまとめてください」と言ったら、きっと怒ってペンを投げつけるでしょう。
 彼らは「五十文字にまとめられるくらいなら、詩や小説を書かない」と言うはずです。

 大切なことは読者がその文章を読んで《何を感じたか、何を考えたか》です。ある文章を読んで感動したか、失望したか、何も感じなかったか。つまり、読者が感じ取った内容に意味があるのです。
 このような理由から私は結論部である「まとめ」をつくりませんでした。「まとめ」を読むだけで全体を理解したような気分になってほしくなかったからです。部分部分で何を感じたか、それが最も大切なのです。

 結論重視の読み方・話の聞き方がもたらす弊害の例を一つ取り上げましょう。
 たとえば、もしもあなたに十代の息子や娘さんがいてその生活態度が乱れていたら、彼らの生活を正そうといろいろ語ると思います。しかし、彼らは「うるさいなー」と言ってあなたの話を聞こうとしないでしょう。
 それはなぜでしょう。反抗期のせいではありません。結論が見え見えだからです。
 親の結論は「生活態度を改めろ。先生や親の言うことを聞け」であり、子どもの結論は「変えるつもりがない」です。

 文章読解において結論や主張を重視する読み方ばかりしていると、人の話を聞くときも、結論・主張がわかればそれでいいと考えます。それゆえ結論がわかる話は聞こうともしないのです。それは子どもに限らず、大人でも優秀な国会議員さんでも同様です。
 特に結論は理屈でしかありません。子どもの生活態度が乱れても、それを直そうとしない原因は感情にあります。感情を説得するのは具体的な話です。親や先生から子どもの感情が揺り動かされるような話を聞き、自ら「生活態度を改めよう」と思ったとき、ようやく変わり始めるのです。
 国語(現代文)は《結論・主張重視ではなく、途中で何を読みとったか。何を考え、何を感じたか、それを重視した》授業がなされねばなりません。それこそ読書や人の話の聞き方の訓練になるのです。

 ちなみに、一読総合法を実践した私の現代文授業では「この文章の結論は何か」とか「作者は何を訴えたいのか」といった質問は一切しません。読み終えた後、生徒に百文字感想文を書かせ、それを半数分くらいプリントしてクラス全員に紹介します(自分の意見や感想を五十字、百字にまとめる訓練は大いに意味があります)。生徒はこのプリントを熱心に読みました。一人一人文章の受け取り方や感想が違うことがわかって面白いからです。

 もう一つ、一読総合法の読み方がいかに実際的か、その例をあげます。
 まず基本的に人の話を三度聞くことはあり得ません。同じことを三度言ってくれと言われたら、みな怒るでしょう。人生が繰り返されないのと同じように、人との会話も一度きりです。
 たとえば、あなたと誰かが込み入った話をしているとき、相手が誤解していると思ったなら、どうするでしょうか。「ちょっと待ってくれ。そこは誤解だと思う」と言って話を止め、弁解とか意見を言うでしょう。
 ところが、話を止めてみたら、相手が「と、みんなは言っているが、私の意見はこれこれ……」と言うなら、自分が誤解と思ったことは相手の真意でないとわかり、さらに相手の話を聞いてから、自分の意見を述べるでしょう。

 これが一読総合法の読み方です。文章を読んでいるとき、ある部分で「これはおかしなことを言っている」と思ったら、そこで立ち止まるのです。そして、少し考える。その後「もう少し読んでから判断しよう」と思って読み進め、「なるほどさっきおかしいと思ったのは私の誤解だったか」とつぶやくような読み方です。
 しかし、読み進めて「どうも自分の誤解ではなさそうだ。やっぱり作者の意見はおかしい」とつぶやくこともあるでしょう。そうなってようやく作者と違う《自分の意見》が形成されていきます。

 これに対して「最後まで読んで(聞いて)から、自分の意見を言うべきではないか」とおっしやる方もいるでしょう。文章の結論や作者の全体的な主張を知ってから意見・反論を述べるべきだと。「話の腰を折るな」も話の途中で口を挟むことを禁じています。それゆえ三読法が生まれたのかもしれません。ところが、一読総合法とは途中で大いに話の腰を折る読み方であり、聞き方です。

 なぜこの読み方・聞き方が大切なのか。その理由は結論が反論しづらい理屈であることが多いからです。先ほどの生活態度が乱れている息子や娘の例を挙げれば、「生活態度を改めろ」なる結論に対して反論の言葉があるでしょうか。だから、彼らは「わかったよ」と言うのです。

 あるいは、「戦争は良くない。平和が大切です」の結論に対して誰が反論できるでしょうか。
 みな「その通り」と答えるしかありません。
 しかし、その言葉を誰が言っているか――なら、感想や意見が生まれます。
 たとえば、戦場で活動する看護士や牧師さんの言葉か、足を失った兵士の言葉か。戦死した子を持つ親の言葉か。あるいは、武器商人や武器製造企業の社長さんの言葉か。結論はみな同じであっても、途中は全く異なる言葉(文章)となるでしょう。
 このように人の言葉を聞いたり、書かれた文章を読むとき、大切なことは結論ではなく部分なのです。そして、部分をしっかり読もう、聞こうという読み方が一読総合法です。一度目はさあっと読む訓練ばかりでは、人の話も「上の空でぼんやり聞く」ような子どもしか育ちません。

 本題に戻って、もしもこれまで途中をさあっと読んで「とにかく早く結論を」と思ってここにたどり着いた方は、三読法の犠牲者です。もう一度以下の各章入り口のドアを開け、その部屋に入ってください。
 そして、立ち止まり、ゆっくり読んでいろいろ考え、いろいろつぶやきながら、またここまでやって来てください。そして、最後に次ページの「後書きとお願い」に進んでください。
 もしも「いいね↑」と思って本稿を他の人に紹介していただけるなら(それはとてもありがたいことながら)、どこか一部を切り取ってブログに貼り付けることは、とてもむごいやり方であることを書いています。

   ==『般若心経』講話 目次 ==
  第一章 『般若心経』講話全体入口(〜解釈)に戻る
  第二章 裏版『清浄般若心経』導入入口に戻る
  第三章 『般若心経』の解説――誤解入口に戻る
  第四章 『般若心経』「空無清浄観」導入入口に戻る

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